2011年9月28日水曜日

酒匂川洪水予報について:住民からみた課題

 先日の台風は雨風、強かったですねえ、、、。酒匂川近辺在住なもので、今回の洪水の
氾濫危険情報にはかなり緊張しました。さいわい氾濫はしなかったわけですが、私自身は
避難指示がでていたにもかかわらず避難しなかったことになるので、家族の事も考えると
反省しなければなりません。そこで、住民として洪水への自主的なリスクヘッジをどう
考えていくか、私なりにまとめてみました。

1、酒匂川の特性
もともと酒匂川は相模川と比較しても2-3倍程度河床勾配が強く(十文字橋梁付近で1/200)、
足柄平野内を流れる大半は治水でいうところの扇状地河川(河床勾配数百分の一以下)であり、
洪水の破壊力が強いという特性があります。歴史的にも名だたる暴れ川であり、流路の
度重なる変化のため平野内には旧河道が散在し、また歴史的に左岸側に残るはずの条里制
遺構は東西に走る巡礼街道を名残として、明瞭とはいえません。
今でも地元の小・中学生は授業で二宮金次郎や近世農民の苦労を教師から聞かさている、
はずです(近世の洪水については岩崎宗純ら『江戸時代の小田原』1980年など参照ください)。
明治に入ってもその状況は続き、例えば『小田原市史史料編近代Ⅰ』には、当時の状況を
伝える史料がいくつか収載されています。
ちなみに明治10年成田村水害表では7月26日23時時点で平時より6尺(1.82m)の増水があり、
堤防が150間(272.7m)余切れたとのことです。明治29年9月にも松田村で8尺(2.42m)の増水
があり、吉田島村・松田惣領・富水村・桑原村・中新田など各所で堤防の損壊が発生しました
(明治29年9月10日付『毎日新聞』)。

2、現状

近現代の土木工学の発展・技術の進歩、日本経済の発展と治水計画、また何より、
丹沢湖底に沈んだ旧三保村流域住民の献身が功を奏して現在の安定があるわけですね。
酒匂川水系では1978年三保ダムが完成しますが、横山尚秀氏らの報告(1988年)によると、
ダム完成前と後で酒匂川平山観測点の豊水量/渇水量比が2.19から1.99に改善しています
(『小田原市史別篇自然』収載)。
、、、気をつけなければならないことは、では今後2度と洪水が起きないわけではない、という
ことです。相当雨量と有効貯水容量の比を計算していませんが、もともと日本のダムは洪水を
完全に抑える設計思想にたっていません。『治水工事が税金を使って実施されるものである以上、
恣意的でなく、全国的に統一的な基準にのっとって計画高水流量を決定することが望ましい。
そこで第二次大戦後登場したのが、何年に一度程度の洪水を対象にするのかという確率年の
考え方である。』(大熊孝『洪水と治水の河川史』1988年)

酒匂川は2級河川で、50年から100年に一度程度の洪水を対象とすることになります。
2011年1月現在小田原市のHPからみることのできる酒匂川洪水ハザードマップでは、
1日間の総雨量355mmが100年に一度発生しうる豪雨として想定され、作図されています。
『平成7年度版小田原市統計要覧』では、昭和34年観測開始以降小田原での1日降雨量の
極値は255mmであり、降雨記録が100年もないところで確率年に応じた計画降雨から算出された
ものであることに注意してください。

3、リスクの増加分?
上記数値は確率計算なので、ベースとなる雨量の傾向に今後も変化がないことが暗黙の
前提になるはずです。注意しなければならないのは大雨自体が増えてくる可能性で、気象庁
『20世紀の日本の気候』(2002年)では1961年から2000年にかけて関東から東海にかけ、
大雨日数(降水量では無く、日数ですが)が増えているようにみえるデータがあることです
(図1.3.3.2. 考察で結論は留保されていますが)。今回酒匂川水系では静岡県須走観測所が
累加雨量(1日雨量でないことに注意してください。参考値です)497mm、丹沢湖も21日24時間
276mm(累加雨量339.5mm)を記録。2006年台風9号の豪雨(丹沢湖で24時間雨量495mm、
小田原で238.5mm)や今年の台風12号をみても、豪雨が増えている可能性は想定しておいた
ほうがよいと考えます。

4、リスクヘッジを!
ぶっちゃけ、100年に1回よりは短くみておけよ、ということです。洪水はいつかは起きるものと
考え、自分でリスクヘッジをする必要があります。小田原市の防災対策課で作成したハザード
マップは妥当なものと思われますし、それ以外もHPを熟読しておいたほうが良さそうですね。

、、、、今回、しまった、と思ったのは情報を獲得できなかったことです。酒匂川水系では
17時05分に洪水予報第2号として、はん濫警戒情報(神奈川県・横浜地方気象台共同発表)が
あり、主文で「市町村からの避難情報に留意してください」との記載がありました。小田原市役所
からも17時55分ごろ防災行政無線で避難勧告が出されました。ネットから文章をいただくと、
「山王川、酒匂川、狩川が氾濫する危険があります。(地名)地区の皆さんは、最寄りの小学校に
避難してください。」
、、、という内容であったようです。これが聞き取れていれば避難区域もはっきりわかったのでが、
雨音で自宅からは聞こえなかったようです。

その後、18時20分には松田観測所の水位が2.13mと氾濫危険水位(2.00m)を越したため、
18時50分洪水予報第3報としてはん濫危険情報がでました。22時30分解除となったわけですが、
久保田が事の委細を初めて聞いたのははん濫危険情報の出たテレビニュースによって、でした。
19時台だったと思いますが、あわてた私は①自分が避難すべきかどうかわからず(川からの
距離が微妙であったためですが)、②まずテレビの地方局をみましたが有用な情報は流れて
いませんでした。③インターネットで小田原市を検索しようとしましたが、アクセスが集中していた
ようで接続困難な事態。降水量の変化・水位の変化は気象庁のHPで確認可能で、
気づいたのが遅かったこともあって、結局そのまま避難せずに自宅にいすわってしまいました。

後々小田原市のHPをみるとFM小田原(78.7MHz)を聞けばよかったのですね。やはり
災害時はラジオが欠かせないということを再確認しましたし、日頃から住民一人一人が
どのような状況で自分が避難対象になり、どこに避難すべきか主体的に知っておく、
また隣近所に知らせる必要があると痛切に感じた次第です(家族のためにも)。
ただ、暴風で外の音が遮断されている状況で、インターネットの扱えないと私より情報を
集められず、心配している(あるいは心配すらしていない)人も多いだろうとは思いました。
実際避難した人が一部にとどまったのは「洪水は無いだろう」という余談もあったかも
しれませんが、それだけではないように思われます。
行政には防災行政無線の何らかの工夫や、地方テレビ局へのアプローチなど情報周知への
一層の配慮がお願いできればと存じます。

2011年9月23日金曜日

ロマンス諸語の2人称敬称について

、、、それでは、イタリア語の話から他言語の2人称へ話を移しましょう。2人称で親称と敬称が
別れること自体は比較的に一般的なことであっても、実はロマンス諸語、およびその近辺では
もともとは共通性が高く、敬称は2人称複数からきていることが多いのです。

0、イタリア語、、、前回記載した通りです。もともとは2人称複数voiが敬称でしたね。対応する
動詞の活用も2人称複数。ちなみに3人称単数のLeiが敬称となったとき、動詞の活用は
3人称単数に準じるようになります。

1、フランス語
「2人称複数代名詞は、2人称単数の敬称としても用いられる。」(Wikipedia「フランス語の文法」)
動詞の活用も2人称複数に従います。おお、今もまったく変化していませんね。

2、スペイン語
現代スペイン語2人称単数は親称がtu、敬称がusted。複数がそれぞれvosotros、ustedesなので、
親称・敬称が独立しているわけですが、もともとカスティリア語で2人称複数由来であるvosが
2人称単数の敬称として用いられていたために、2人称複数がvosの複数形としてvosotrosとして
導入された経緯があります。ラテンアメリカのスペイン語はそのため現在でもvosを2人称単数に
使います:ただし、敬称では無く親称としてですが(日本語における「貴様」のようなものですね)。
ここで一つ興味深いのは、ustedの動詞活用形は3人称であることです。

3、英語
もともと英語史において2人称単数主格はthou、2人称複数主格がye(古形ge)、対格がyou
(古形eow;ドイツ語2人称複数対格euchに対応)でした。その後、
①対格と主格の区別がなくなる形で2人称複数主格がyouとなり、②さらに2人称複数が
単数敬称として導入され、③さらに敬称と親称の区別がなくなったために現代英語の
2人称単数/複数youが成立した、という経緯があります。②の発生は後述する現代ドイツ語との
対応関係をみるかぎり比較的新しいことと思われ、恐らくはノルマン・コンクエスト以降、中英語
Middle Englishと呼ばれる、フランス語の影響下のことではないでしょうか。

結論
、、さて、以上みてきましたように、もともとは2人称複数を敬称として使用する習慣が広範に
あったように見受けます。現在各国語はその崩れていく過程をみているわけですね。それでは、
2人称複数を敬称として用いるようになった起源は、いつごろにあるのでしょう?いかんせん素人で
ここからはつめきれていないのですが、私なりにlogicalにつめていき、現在以下の仮説を
考えています。すなわち、

中世ラテン語が2人称複数敬称援用の由来ではなかったか?

、、、根拠として、
(A)ラテン語では2人称複数を敬称として用いることはありません。

「近代語のごとく、複数形を用いて、単数の敬称とすることはない。」

(田中秀央『初等ラテン語文典』1954年)
(B)現代ドイツ語の2人称敬称は単複とも3人称女性・複数と同じSieで、動詞の活用は
3人称複数(複数である点がイタリアと異なります)に準じます。

3人称が2人称敬称に使われるようになったのはドイツ由来で、受容の仕方がイタリア・スペインで
異なると考えた方が蓋然性が高そうですね。ドイツ由来の言語伝播では、例えば単語「白」が
伝播モデルでは、
ドイツ(blank)→フランス(blanc)→スペイン(blanco)・イタリア(bianco)
という明瞭な流れがある(前掲『歴史比較言語学入門』)のですが、上記のようにフランスで
2人称がそのままつかわれているところをみると、もう少し王朝貴族間の交流の粗密などを
背景に考えたほうがよさそうですね。

ただし、全般としてここまでだと根拠が確定的ではありません。もっとドイツ語史の知識を深める
必要があって、仮に古高ドイツ語Althochdeutch、中高ドイツ語Mittelhochdeutchで2人称複数を
敬称に使用していれば、より古いタイミングから(印欧祖語とはいわないにせよ)ヨーロッパで
普遍的に2人称複数が使われていた、ということに仮説のほうが魅力的になってしまう。、、、
ちなみにロシア語も2人称複数を敬称に使うのです。

ここからはさらに書籍をみて、学習をすすめる必要がありそうですね。ラテン語史・俗ラテン語に
ついては文庫クセジュ、中世ラテン語文法は國原吉之助氏の著作がありますし、ドイツ語史・
ゲルマン語史についても外国語・学術論文までいかなくとも邦語文献は複数あるので、今後、
一定の確認ができたら後日追記いたします。

2011年9月17日土曜日

イタリア語の2人称単数敬称について

最初なんにしようかなあ、、、と悩んで、結論が出る話ではないのですが、寝物語にでも
楽しんでいただければ、という話を一つ。

イタリア語の2人称単数の敬称は3人称単数「彼女」と同じ「Lei」で、活用も3人称に準じます。

何を唐突な、と思われるかもしれませんが、最近趣味で学んでいることで、お許しくださいね。
、、、そもそも人称代名詞において、相手を親しみを込めて呼ぶ場合(2人称親称)と、目上に対して呼ぶ場合(2人称敬称)で区別する事自体はよくあることです。

我々が用いる日本語においては、文語で存在した敬称(「貴様」他)が使われなくなり
(ないし親称化され)、目上に対しては2人称を省略するのが一般的になっている状況なので直観しがたい部分はありますね。それでも、

「ねえ彼女、ちょっと遊ばない?」
のように、2人称の親称としてあえて3人称を使う場合などイメージしていただければ、と思います。イタリア語では敬称を3人称でこなすわけですね、、、ところが、地域的にみると3人称ときまっているわけでもないようなのです。

「、、、親しくない大人に向かって言う『あなた』ですが、これはさきほど説明したようにleiというのがふつうです。ところが南部ではvoiを使うことがあるのです。voiは普段は
『あなたがた』ということですから、動詞は2人称複数形を使います。」
(郡史郎著『はじめてのイタリア語』1998年)

イタリア南部では敬称として2人称複数を使う、という指摘です。
ふむ、なんでかしらん?
漠然とした疑問をもっていたところ、Wikipediaで『イタリア語の文法』の項をみていて興味深い記載をみつけました。

「歴史的には二人称の敬称として voi が使われた。」
実際、14-15世紀イタリア中部の商人、フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニの手紙では親称tuの使い分けの対象として意識されるのはvoiです(イリス・オリーゴ著篠田綾子訳『プラートの商人』1981年)。ダティーニのいたトスカーナはイタリア共通語の母体となった土地で、また現在のイタリア南部とは別々の国であった時期が長く、Wikipediaの指摘が確認できる好例といえましょう。

、、、するってえともともと敬称に2人称複数を使っていたのが、途中からイタリア北・中部が3人称を使うように変わったってことか!柳田國男の方言周圏論みたいに、田舎が取り残されたみたいなものか、、、『歴史比較言語学入門』(下宮忠雄著1999年)で以下のような記載を見つけました。

「、、、古語は辺境に残る(archaism is marginal area)、、、。都市に発生した新語や新表現は、波紋が広がるように四方に普及するが、川や山の障害にぶつかると、そこで止まり、人里離れた山村には伝わらない。このため、都市では消えてしまったものでも、辺境の方言には古い単語や方言が残っていることが多い。」(P123)
イタリアではマッテオ・バルトリの新言語学として提唱したことに含まれているようです。
(バルトリ氏のIntroduzione alla neolinguisticaは1925年。柳田『蝸牛考』が1930年ですから、発想がそれぞれ独自なのかどうかが気になるところですね)

さて、ではその敬称としての3人称がどこからどのように来たか、です。欧米では歴史言語学は古からのぶあつい伝統を誇っていますから、時間と読解力さえ要すれば、誰かが必ず答えとなる説を提唱しているのは間違いありません。ただ、そこまでは単なる歴史好きの門外漢、なかなか突き詰めきれないですね。
、、、そうはいっても、他の印欧語との比較からある程度の仮説は導きだせそうです。すなわち、ロマンス諸語一般で2人称複数を使っていたものが、時間とともに徐々に崩れていく過程、といったものでしょうか。、、、また次回にお会いしましょう。

2011年9月13日火曜日

ブログを開設しました

前略
ご無沙汰しております、久保田七衛と申します。
神奈川在住の40代。最近環境の変化から少し時間もできたので、
ブログを開設いたします。歴史、医学史その他雑多なテーマで書き込みできればと
考えています。よろしくお願い申し上げます。