2011年10月31日月曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(8) 青蒿

B、青蒿・草蒿
 茵蔯蒿と比べ生薬としての使用が少なく、そのためか種の同定に困難が伴う品名です。
 初出は現在のところ前漢初紀元前2世紀頃と推定される馬王堆出土の『五十二病方』で、痔に対する治療で2回「青蒿」の記載を認めます(小曽戸洋ら2007『馬王堆出土文献訳注叢書五十二病方』)。『神農本草経』下品では「草蒿」として収載(「味苦寒。生川澤。治疥瘙痂痒惡瘡。殺蝨。留熱在骨節間。明目」)。五代期の韓保昇は別名として香蒿、シン(ケモノ篇に卂シン)蒿と共に「青蒿」を挙げます。『図経本草』や明代『本草綱目』の記載から牧野富太郎は青蒿をA. apiaceaカワラニンジンにあたるものと評価しました(なお、白井光太郎氏も『大和本草』青蒿の考証で同様の結論を出しています)が、北宋代の『夢渓筆談』では「青蒿は一類に自から二種あって」とあり、「数種のものがあったと考えられる」。同時期の寇宗奭は黄花蒿も青蒿の内であるから、どちらを用いても構わないとの立場をとっていました(蘭山『啓蒙』参照)。

現在の中国市場の状況ですが、難波1980をみるかぎりA. apiaceaは青蒿として扱われず、大半がクソニンジンA. annua(黄花蒿)で、その他北方ではカワラヨモギA. capillarisおよびハマヨモギA. scoparia、江蘇・四川でオトコヨモギA. japonicaおよびA. eriopoda、雲南でA. parvifloraも使われるようです(全草を用います)。しかし、鈴木洋1994では青蒿を日本・朝鮮・中国に分布するA. apiaceaのこととし、クソニンジンも使うことがあるというスタンスです。ちなみに中国のHP中国植物物种信息数据で「青蒿」を検索するとA. carvifoliaとでてきます。A. carvifoliaは中国版Wikipedia「維基百科」では異名としてA. apiaceaeを挙げます。A. carvifolia var. apiaceaとの記載もあり、また両者とも和名がカワラニンジンと同じこともあって、植物学的にかなり近いと思われます。以上、考察が長くなりましたが、あくまでカワラニンジンが正品ということでしょう。

 日本では茵蔯蒿と同様奈良期に記載を認めません。輔仁『本草和名』で「草蒿」の一名が青蒿であるとして記載され、和名を「おはき」と訓じています。「萩」イコール「䔥」として、カワラヨモギと訓じる流れに近いものが感じられます。近世に入り1603年『日葡辞書』ではセイコウ・ソウコウ・カワラニンジン・クソニンジンで記載を認めず、蘭山『啓蒙』で異名として挙げられるカラヨモギがCarayomogui「ある種の草」として収載されています(薬品として認識されていないことに留意:なお蘭山『啓蒙』ではカラヨモギを牡蒿オトコヨモギの江州方言、黄花蒿クソニンジンの常州方言、蓍(注参照)の勢州方言としても扱っており、種名の確定は困難です)。薬種同定を主目的とした対馬藩から御三家紀州藩への朝鮮薬種献上事業(寛永201643年)では「青蒿」が茵蔯蒿とともに献上されます。なお朝鮮『東医宝鑑』では「艸蒿」即ち草蒿が収載されていますが、1721年の対馬藩薬剤質正官越常右衛門による倭館での調査では和名が何か詳らかにならず、その後の調査の結果、丹羽正伯が1726年に編纂した『東医宝鑑湯液類和名』では「艸蒿 セイカウ カハラヨモギ」と記載されるに至ります(注7:田代1999『江戸時代朝鮮薬剤調査の研究』)。このままでは茵蔯蒿との錯誤が問題になるわけですが、その後修正されるに至ったようで、蘭山『啓蒙』、元堅『提要』共に青蒿ではカハラニンシンを正品として扱っています。「黄花蒿ヲ青蒿ト為ス。今薬舗モ誤ヲ同フス。宜ク弁別スベシ。(中略)青蒿ニハ必、カハラ人参ヲ用ルヲ真トス」(蘭山『啓蒙』)。近世前期を経て、本草家や後世派の間で青蒿への態度が一貫していたことが窺われますが、花の大小以外では薬種商でも両者を弁別できないことが記載されていて、興味深い内容になっています。

<薬理・薬味・薬能>
 まず、カワラニンジンとクソニンジンで薬理学上確認されている成分はかなり異なります。その上で元堅『提要』では薬味が苦寒。「解鬱熱、破宿血、治腸廱」の効を認めます。

 難波1980では、少陽・厥陰の血分に入り、肝・胆・腎経の伏熱を去る、清熱・涼血・退蒸の良薬であり、風疹掻痒・盗汗を治するのに使われるとのことです。現代中医に使用される青蒿は決して多くはなく、青蒿が配合されている神麹シンキクを含む保和丸を元代『丹渓心法』で認める以外は、清代『温病条弁』所収の青蒿鼈甲湯、同じく清代『通俗傷寒論』の蒿芩清胆湯などがあるくらいです。

注7
享保6年(1721年)に朝鮮東莱府より提供された「草蒿」のサンプルは宗家文書『薬剤禽獣御吟味被仰出候始終覚書』に現在まで図面として残り、その図を考証した正伯は「(前略)按ルニ、朝鮮ヨリ指上候図ハ、牡蒿ニテ艸蒿ニテハ無之候、艸蒿ハ則チ青蒿ノ事ニテ候、」と収載の植物がオトコヨモギであることまで正しく判定していながら、青蒿を「カハラヨモギ」としてしまいます。
カワラヨモギとカワラニンジン、名称が類似することからくる単なる錯誤か、それとも根本的な誤解なのかは手元の史料では遡及できません。

2011年10月25日火曜日

鷹島での「元寇船」報道について

 10月20日-21日付各紙に記事あり。24日琉球大学の調査チームから、映像が公開されました。NHKは6-7時台のニュースで短時間取り上げましたが、ニュースウォッチ9ではその後の事故報道などあったためか流されませんでした。テレビ朝日は10時からの報道ステーションで一定の時間をさいていましたね。同日読売新聞朝刊の番組欄をみると既に「元寇の沈没船映像公開」という題字がありますので、本日の記者会見の内容は事前に告知されていたようですね。調査チームの映像以外に潜水シーンあり、一般的な元寇の説明から入って宇野隆夫氏の資料を参照しての船体の大きさの推定、民間への取材など行っていて、最後はキャスターの(現代への示唆のような?)コメントでしめる、という内容でした。今後特集報道とかあるんでしょうかね?内容的にはありそうですね。

鷹島海底遺跡の研究は昭和55年以来の長い歴史があります。
www.h3.dion.ne.jp/~uwarchae/takasimasitebun.htm
当初から科研費特定研究で行われていたようですが(他に港湾整備に伴う鷹島町教委の発掘あり)、琉球大学池田栄史の調査チームも平成16年度からの科研費研究「長崎県北松浦郡鷹島周辺海底に眠る元冦関連遺跡・遺物の把握と解明」の調査の中での成果のようですね。
kaken.nii.ac.jp/p/18102004
ARIUA(アジア水中考古学研究所)のブログ「海底遺跡ミュージアム構想」でも、10月21日付で取り上げられていますが、現時点での学問上の意義についてのコメントはこの文章につきるように思われます。
blog.canpan.info/ariua/
「今後の分析・検討が必要ですが、これを機会に、日本の水中考古学の環境がより良い方向に
向いてくれれば、と思います。その機会でもあるとも思います。」
研究に長く携わってこられた方の、まさに感懐なのでしょう。
さて、1mほど掘り進めた状況での発表は、どのタイミングで発表するかはかった上でのものだったのでしょう。画像を拝見するかぎり、搬出遺物と船体との随伴関係はかなり確定できるようですね。実測図など詳細の報告書が待たれるところですが、調査チームは元寇船でほぼ確定できると評価している、ということでしょうか。

船舶史は、特に東洋では利用できる遺物・遺構が限られるため、我々門外漢からみてとっつき難い分野ではないでしょうか。日本で一般によくしられた資料となると該当時期では福建省の泉州船(1974年発掘:『泉州湾宋代海船発掘与研究』海洋出版社 1987年)や韓国新安船(1977年発見:『新安海底引揚古代木船의模型復元』文化財研究所 発行年次不明)などわずかです。
ただ、近年中国では山東省蓬莱市での元代から明代の船舶複数出土や(1号船が1984年、2-4号船が2005年:『蓬莱古船』山東省考古歴史研究所 2006年)、広東陽江市東平港1987年出土の南宋船南海1号、広東省汕頭市南澳島沖2009年出土の明船南澳1号などが注目されるところですし、韓国では2011年に忠南泰安郡近興面馬島沖で出土した高麗船の馬島3号船は保存状態がよいようで、やはり今後の報告書が待たれるところです(南海1号は2011年9月に科学出版社から試掘報告が出たばかりなようですね)。今後相互比較が可能になってくると興味深いですね。

文献史学の側での元寇船の分析というと、下記著作が挙げられるでしょう。
・山形欣哉『歴史の海を走る』2004年
日本における中国船舶史の、まさしく基本文献です。第3章で蒙古襲来絵詞に描かれる元船の分析を行っています(1999年のNHK大河ドラマ『北条時宗』でも元寇船の復元考証をされています)。

・井上隆彦「元寇船の海事史的研究」『日本海事史の諸問題船舶編』1995年
1991年テキサスA & M大学提出の修士論文に加筆修正したもののようです。文献・絵画的分析以外に泉州船、新安船についての記載あり。以下の記載は20世紀までの研究の状況を端的にあらわしています。
「(前略)しかし、こと元軍の日本侵攻時に使われた艦船の研究になるとごく一部の断片的研究業績が散見される程度で殆ど顧みられていないのが実情ではなかろうか。中でも直接的文献史料の欠如もあってか造船技術史からみた業績はおおよそ皆無といってもよいのである。」

・太田弘毅『蒙古襲来-その軍事史的研究-』1997年
元寇についての軍事史的研究として発行年次までにおける基礎的研究に位置付けられます。弘安の役時の江南軍の船舶に新造艦が少なかったであろうこと、船舶を造った4州のうち3州まで内陸にあること、東路軍の船舶がより被害を受けなかったと思われることなど興味深い記述を認めます。発掘の進展で船舶の性格を考える際、議論の出発点となるであろう視点を多く含みます。

今後の研究の進展をこころから待ちわびる次第です。

2011年10月21日金曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(7) 茵蔯蒿(2)

まず、ヨモギ属(6)の続きとして:
沖縄県薬剤師会のHPではA. campestris Linne. リュウキュウヨモギを茵蔯蒿にあてています。

<薬理・薬味・薬能>
 森立之本『神農』では「味苦平。治風湿寒熱邪気。熱結黄疸。久服輕身益氣耐老。」との記載があります。『名医別録』にも微寒・無毒であり、通身の発黄・小便不利・頭熱を治する旨記載され、黄疸改善・瘀熱通利・利水が古来から知られていた薬能ということになります。現代でも使われる茵蔯蒿湯は初出が『傷寒論』、茵蔯五苓散は『金匱要略』と、古くから他生薬と配合され用いられてきました。宋代の韓祇和・李思訓は黄疸を陽黄と陰黄に分け、陰黄に対し大黄と附子を配合した茵蔯附子湯を使用しました(王好古「湯液本草」『四庫醫學叢書・病機氣宜保命集外七種』1991年収載)。陽黄/陰黄の分離はその後傷寒陰証の研究と温補脾胃を強く説いた元代の王好古により整理され、やがて清代には張璐が茵蔯四逆湯を開発します(『張氏医通』)。現代中医でも足の太陽膀胱経と脾胃に作用するとされ、脾胃に湿熱が鬱積する陽黄では茵蔯蒿湯・茵蔯五苓散を用い、より寒が盛んな陰黄では茵蔯四逆湯を用いるように分けています(神戸中医学研究会1982『中医処方解説』注5)。他、唐代(外臺:麻黄五味湯)、宋代(聖恵:茵荊湯)、明代など各時代に茵蔯蒿を含んだ新規方剤は開発されますが、現代保険収載まで続いているものとなると数が少なくなります。

和漢でも黄疸への作用を最重視します(香川修庵1738『一本堂薬選』「諸黄疸を療ず。必ず用いるの薬なり。」多紀元堅1837『提要』「黄疸之聖薬」、浅田宗伯1863『古方薬議』「黄家之主薬」)。吉益東洞1771『薬徴』は茵蔯五苓散と茵蔯蒿湯を考徴して茵蔯蒿の主治を「発黄」とした後、さらに進んで他症状があった場合は茵蔯蒿は使うべきではないとも受けとれる記載があります(注6)。陰黄に対し茵蔯蒿に附子を合わせて処方する中医的処方は、後世派(宗伯『薬議』)・古方派(東洞『薬徴』)いずれも強くこれを批判しています。

茵蔯蒿の成分ですが、精油(カピリンなど)の他、クロモン類(カピラリシンなど)、フェニルプロパノイド類(カピラルテミシンなど)、クマリン類(エスクレチン・スコパロンなど)、フラボノイド(クリソエリオールなど)などを含みます。このうちカピラリシン、エスクレチンの含量は9月の開花期から盛花期がピークで、薬種の採取時期と重なるとのことです(2002年のネット情報www.geocities.jp/kokido/in.html)。

 
 以下、茵蔯蒿の基礎研究の進捗状況については別稿を期したいと存じます(現状では上記ネット情報が、2002年と古いですが最もまとまっているものと思います)。特に利胆作用を中心として、研究がかなり進んでいるといっていい状況でしょう。

注5
 茵蔯四逆湯の初出ですが、ネット情報で医塁元戎(1660年)との記載あり。1702年の張氏医通より早いのですが、原典にあたれていません。

注6
仲景氏之於茵蔯蒿、特用之於発黄無他病者而已。」(吉益1771『薬徴』巻之中)

「蓬」の由来

「蓬」の項でも述べたとおり、現在国内では牧野氏が述べた如く「蓬」はヨモギを意味しない、とするのが定説といっていいと思います。それ以外の可能性はないでしょうか。
1、牧野説の根拠
 
 「では蓬とは何んだ。蓬とはアガサ科のハハキギ(ホウキギ)すなわち地膚のような植物で、必ずしも単に一種とのみに限られたものではなく、そしてそれが蒙古辺の砂漠地方に熾んに繁茂していて、秋が深けて冬が近づくと、その草が老いて漸次に枯槁し、いわゆる朔北の風に吹かれて根が抜け、その植物の繁多な枝が撓み抱え込んで円くなり、それへ吹き当てる風のために転々としてあたかも車のように広い砂漠原を転がり飛び行くのである。そこでこれを転蓬とも飛蓬ともいっている。」
(牧野『植物一日一題』:青空文庫参照)
 つまり、枯れた後に根が抜けて風に飛ばされるイメージが根拠になっています。このイメージの由来として、『植物一日一題』では出典が4つ挙げられていますが、  その中でも最重要なのは2番目前漢代『説苑』収載の魯哀公の言でしょう。
「秋蓬ハ根本ニ悪シク枝葉ニ美シ、秋風一タビ起レバ根且ツ抜ク」

2、もうひとつの「蓬」
前漢代において、蓬にもうひとつ意味があったことは無視できないと思います。即ち、当時対匈奴の前線であった西域エチナ河付近には多数の烽燧(ホウスイ:烽火台)が残っていますが、出土する木簡に多数の「蓬」字があるのです。

「蓬とは信号用の旗の一種で、昼間の合図に用いられた。燧のショウ(ツチヘンに焦)には『蓬干』と呼ばれる柱が立っており、蓬は滑車と綱でこの旗竿に挙げられた。滑車を『鹿盧』、綱を『蓬策』という」(籾山明1999『漢帝国と辺境社会』)。

「匈人奴昼入殄北塞、挙二蓬、□煩蓬一、燔一積薪。夜入、燔一積薪、挙ショウ(ツチヘンに焦)上離合苣火、(以下略)」
(籾山1999所収EPF16:1文書 文中の□は不鮮明を意味します)
 匈奴来襲の際、昼は「蓬」を挙げ薪を焼き、夜も薪以外にかがり火を朝まで絶やすな、という指示です。「蓬」の形態についても敦煌清水溝の烽燧跡採集の漢簡や『史記』司馬相如列伝に引かれる『漢書音義』に記載があり、籾山氏はそこから「口のまるい筒ないしは籠のような形を想定できるのではないか」としています。そもそも「烽のろし・とぶひ」の字自体『説文』では正字を熢につくっていて、「蓬」字との関連が示唆されるでしょう。「布蓬」「草蓬」という表記もあって材質は一様ではなかったようですが(籾山1999)、仮に「蓬」が特定の植物を示唆するとして、その植物を信号用の旗に使うから「蓬」と呼ぶようになった、可能性は十分注意するに足るものと考えます。

ここで気をつけておきたいのは、「転蓬」「飛蓬」のイメージがこちらからきている可能性も無視できないのではないか、ということです。烽火台の上に掲げられた植物性、かつ円形の「蓬」がとばされたときは、さぞよく転がることでしょう。『説苑』の記載も重視しなければならないのは無論ですが、『説文』の「蒿ナリ」も同じように重視しなければならないと思います。

①<自然に根こそぎ抜けて>転がってしまう植物のイメージがかならずしも必要ないとすれば、②辺境の植物である「蓬」は「転蓬」「飛蓬」を比喩に用いた後代の詩人・官僚にとって、本質的には身近な植物では無いことも考え合わせて、「蓬」はヨモギではないとする論拠もまた確固なものではなくなるはずです。もともと烽火を使うような北方の乾燥地帯ではヨモギ属はどちらかというとよく見かけるはずでもあり、牧野氏のいうようなアカザ科のイメージは、当初からのイメージというよりはむしろより後代のイメージの変化が大きいのではないかと疑います。

牧野博士の立論を覆すものではなく、可能性の一つを探る内容ですがいかが思われるでしょうか。ご意見いただければ幸いに存じます。

2011年10月17日月曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(6)

A、茵蔯蒿(茵陳蒿)
『神農本草経』上品に「因陳」として収載。名称の由来について陳蔵器『本草拾遺』は多年草であることを挙げています。北宋代の『図経本草』中で蘇頌は汴京の山茵蔯、江南の山茵蔯、江寧府の茵蔯、階州の白蒿など、同じ茵蔯蒿と呼ばれるものであっても当時から種々のものが含まれる状況であったことを既に考察しています。現代中国で茵蔯蒿の正品はカワラヨモギArtemisia capillarisの幼苗(日本では頭花を使用:茵蔯蒿の幼苗を日本では綿茵蔯と称し、分けています。注3)ですが、前掲難波氏の著作(難波1980)によれば他に、A. scoparia(ハマヨモギ 濱蒿)、A. frigida(白蒿)、A. sacrorum(萬年蒿)、A. japonica(オトコヨモギ 牡蒿)が市場で出回り、またマメ科オヤマノエンドウ属Oxytropis(内蒙古で使用)、ゴマノハグサ科ヒキヨモギ(陰行草)、シソ科ハナハッカ(牛至 別名土茵蔯・北茵蔯)も用いられるとのことです。また韓国ではA. iwayomogiイワヨモギの茎葉を茵蔯蒿と称するようです。

日本では平安初期に深根輔仁『本草和名』(大正15年影印)や源順『和名類聚抄』でヒキヨモギ(ゴマノハグサ科陰行草と同種であるか、現状では議論困難です)と訓じられています。平安前期の『延喜式』巻第37典薬寮諸国進年料雑薬では「茵陳稾」の産地として4ヶ国(相模・尾張・近江・讃岐)を挙げていますが、後代と連続しない種同定で何を当時意味していたかは不明です。

貝原益軒1708『大和本草』中ではカハラヨモギと訓じられますが、寺島良安1713『和漢三才図絵』では「インチン」のみで和名の記載が無く、「俗云河原蓬」はかえって「黄花蒿」で記載されます。その後小野蘭山1802『本草綱目啓蒙』や多紀元堅1837『訂補薬性提要』、大蔵永常1847『山家薬方集』までには、カハラヨモギで訓が安定し現在に至ります(注4:蘭山『啓蒙』では異称ネズミヨモギ。遠江でコギ、安芸でフナバハキと方言での異名あり。イヌヨモギを大和での方言、ハマヨモギを加賀での方言としていますが、それぞれA. keiskeanaA. scopariaとして、現在は別種として扱われています。ただし難波1980によれば「日本産のハマヨモギはカワラヨモギと判別不可能である」とのこと。ネット検索でもオトコヨモギ、ハマヨモギ、リュウキュウカワラヨモギは近縁種であり花蕾の形態が非常に近似していて、誤って用いられるとの記載を認めました: http://www.geocities.jp/kokido/in.html)。

3
浅田宗伯1863『古方薬議』では「古本草、茵陳蒿は莖葉を用ふ。而して後世子を用ふ。」と、日中の使用部分の違いを年代差として捉えています(宗伯が子として捉えた部分がカワラヨモギの頭花です)。なお、荒木正胤や荒木性次は、綿茵蔯を使うのが好ましい、と主張されていたようです(村田恭介1981「綿茵蔯」『和漢薬誌』339)。

注4
茵蔯蒿の日本における同定ですが、1603年の『日葡辞書』では、Cauarayomogui(カワラヨモギ:「ある薬草」と訳されます)が九州の方言のFamabutcu(浜ぶつ:「ふつ」がYomoguiの九州方言との記載あり)に対応する畿内の用語であることが指摘されていますが、Inchin(ある草から作られる薬の一種)との対応関係は指摘されていません(『邦訳日葡辞書』1989年)。この頃までは茵蔯蒿のカワラヨモギとの対応関係が国内で一般には認知されていなかったものと思われ、年代の下った近世初期でも、薬種同定を主目的とした対馬藩から御三家紀州藩への朝鮮薬種献上事業(寛永5年1628年・寛永201643年)の際には、「茵蔯」「茵蔯蒿」の記載を認めますが、その後同定が進むと、日本・中国と異種を用いる朝鮮の茵蔯蒿は不要になったものと思われ、以後薬種貿易で扱われることが無くなってきます(田代和生1999『江戸時代朝鮮薬剤調査の研究』収載文献を参照)。
上述の通り貝原益軒ではカワラヨモギを意識した記載に既になっていますが、国内においてカワラヨモギが茵蔯蒿として周知してきたのは17-18世紀の長い経過を経てのことであったと思われます。

漢方生薬考 ヨモギ属(5)

2、生薬
 後代に続く生薬としてのヨモギ属は、茵蔯蒿(インチンコウ)・青蒿(セイコウ)・艾葉(ガイヨウ)が一般に知られます。このうち茵蔯蒿と青蒿は『神農本草経』(注:森立之校正本)に収載されていますが、艾は若干後代の『名医別録』が初出で、医学的背景が他の2生薬と若干異なることは留意すべきでしょう。

 国内においては756年作成とされる正倉院『種々薬帳』にヨモギ属を示唆する生薬名は記載されていません(森鹿三1955「正倉院薬物と種々薬帳」『正倉院薬物』鳥越泰義1995『正倉院薬物の世界』)。『出雲国風土記』(間壁葭子1999『古代出雲の医薬と鳥人』)や藤原宮出土の薬物木簡(8世紀初めまでの状況を反映。これまで生薬50種が確認されている:丸山裕美子1998『日本古代の医療制度』)にも記載がなく、収載は平安初期以降に明確化します。中国書籍の伝来状況からヨモギ属についての知識は無論あったものと思われます。また灸の記載は当初からあるので、当初内服ではほとんど実用に供されていなかった可能性を疑います。

2011年10月12日水曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(4)

C、「蓬ホウ」

『説文』では「蒿ナリ」の記載あり、「蒿」の近縁と認識されています。平安初期源順も「蓬」の和名を與毛木ヨモキと訓じました(『和名類聚抄』元和古活字那波道円本:「兼名苑云蓬一名蓽。艾也。」)ただし飛蓬、転蓬の名の通り、古来より風に従って千里を飄揺するイメージを示唆する用例が極めて多く(注2)、そもそも唐代の語彙集とされる『兼名苑』に記載があるらしい別名のうち「蓽ヒツ」はマメ、イバラと一般には訓じられ(白川静1994『字統』)、ヨモギ属の一般的イメージとはずいぶん異なります。そのため明代の李時珍は『本草綱目』蓬草子の解説で「其飛蓬ハ乃チ藜蒿ノ類、末大ニ本小ナリ、風之レヲ抜キ易シ、故ニ飛蓬子ト号ス」と説明しています(牧野富太郎1946『植物一日一題』)。現代中国で「藜蒿」は「萎蒿とも呼ばれるタカヨモギArtemisia selengensisと同義に扱われますが、李時珍本人は萎蒿と白蒿を結び付けていて、飛蒿と現代中国の萎蒿が結びつくようには思われず、ヨモギ属なのかどうかがつめきれていません。もう少し後のイエズス会宣教師ダントルコルになると1736年の書簡中で「飛蓬フェウピン」を「水中で生育する浮遊植物」と表現しており、まずヨモギ属ではないでしょう(矢沢利彦編訳1977『中国の医学と技術』267頁)。

近世狩谷棭齋は『箋注倭名類聚抄』艾の注釈で、「埤雅」「説苑」「荘子」「商子」などを根拠に蓬と艾が同一でないことを指摘。牧野富太郎はさらに進んで、蓬はヨモギ属ではなく、アカザ科ホウキギ属Kochiaのようなものがこれにあたると推定しました(牧野前掲)。現代中国語では「蓬」を学名中に含んだヨモギ属を多数認め、むしろ『説文』に沿った解釈になっている印象です。いずれにせよ、生薬の用語中にはあまり使用されない用語といえるでしょう。

注2
曹植「吁嗟篇」「吁嗟此転蓬 居世何独然 長去本根逝 夙夜無休間」
李白「送友人」「此地一為別 孤蓬万里征」
閑散とした北方の雰囲気、孤独、旅人などのイメージを描写するために、詩など文学でしばしば使われました。日本でも『続日本紀』神護景雲三年正月三十日条に、漂揺する意味で「蓬」が使用されています。

漢方生薬考 ヨモギ属(3)

B、「蒿コウ」

卜文・金文にも記載のある、由来の極めて古い字です。「高」字は金文で祝祷の器を含むとされ(白川静1994『字統』)、墓域に生える草を意味しました。余冠英も「蒿」は槁コウ(かれる)や薨コウ(しぬ)と音通し、枯死を含意しているとし(竹田晃1980『中国の幽霊』)、もともと病・死との関わりが深い字であることをイメージします。晋代崔豹の『古今注』や同時代の干宝『捜神記』によれば、当時の挽歌の代表的なものの一つに「蒿里」があり、下級役人や庶民の野辺送りの際に歌われていました。蒿里は特定の地名という説(北宋代郭茂倩『楽府詩集』)もありますが、『漢書』武五子伝中の「蒿里」に唐代の顔師古は「蒿里トハ死人ノ里」と注解を施しています(伊藤清司1998『死者の棲む楽園』)。明代の張自烈『正字通』では「蒿里トハ冢ノ間ニ宿草ノ積聚スルヲ言イ、墓門ヲ指スヲ言ウ。」とあり、そこから他史料や雲南の少数民族の聞き取り調査も交え伊藤氏は、「そもそも蒿里という呼び名は、死体を人里遠く離れた荒野に棄てていた大昔の葬俗の面影を伝えているのではないか」と議論を進めました。

『説文』では他の字の説明で「艾蒿なり」との記載があり、「艾」「蒿」の両者は近縁種であるとともに、明らかに異なるものと捉えられていたようです。ちなみに現代中国語でヨモギ属は「蒿」属です(HP中国植物物种信息数据中国科学院昆明植物研究所)。
 最後に、和名ヨモギの語源として、一般にいわれるところでは「四方木」「良く燃える木」「良く萌える木」などが挙げられるわけですが、上記「蒿」のイメージから導かれる可能性として、「黄泉木」はいかがでしょうか。すなわち、「よみ」と訓ぜられる「黄泉」は「よもつひらさか」「よもつへぐい」など、格助詞「つ」の前では「よも」と音変化します。「よもつぎ」から「つ」を脱落させることの妥当性まで立ち入ることができず、発案以上のものではありませんが、ご意見いただければ幸いに存じます。

漢方生薬考 ヨモギ属(2)

A、「艾ガイ」
漢初とされる『爾雅』では「冰臺(ヒョウダイ)なり」として、もぐさの点火方法からの説明(氷をレンズとして艾に点火することからという、晋代『博物志』の説が有力です)が関心の中心に据えられています(臺ダイがスゲと訓じられることがあり、植物名を示唆する可能性も否定できないように思います:白川静1980『中国古代の民俗』所収の『詩経』小雅収載の詩より。「南山に臺あり北山に莱(アカザ)あり」)。李時珍は異名「炙草」を記載(難波恒雄1980『和漢薬百科図鑑Ⅱ』)、モグサも「燃え草」からきている、という説があり(中西準治1997『和薬の本』1997年)、火で燃やすことは艾の文化的特徴となっていることが命名からも窺えます。大塚恭男は梅棹忠夫1956『モゴール族探検記』でモゴール族が燃料のヨモギを掘りとる道具を持っていることを示し、灸法の背景として東北アジアで艾を燃やす習俗があったことを示唆しています(大塚1993『東西生薬考』)。

字の由来については北宋の王安石が『字説』で「艾は疾を乂め(おさめ:治めると同義)得るもので、久しく経たものほど善い。故に文字は乂に従うのだ」と述べています。『神農本草経』より若干後に編まれたとされることの多い『名医別録』でも別名を「醫草」としており、命名自体灸療法など医学的観点からなされた植物といえます(『荊楚歳時記』隋代の注で『師曠占』にあるという「病草」も同じ淵源でしょう)。

南北朝代の『荊楚歳時記』には「五月五日、、、艾を採りて以て人を為り、門戸の上に懸け、以て毒気を穣(はら)う。」(宗田一1993『渡来薬の文化誌』の訳より)とあります。このような辟邪・辟病のための採薬が、後代山野遊楽のための若菜摘みへと変化していくことは、つとに先学から指摘されるところです。日本でも5月の節句にヨモギとショウブを軒につるします(平安期清少納言『枕草子』「五月にしく月はなし。菖蒲蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。」)その他、和名中の異名モチクサは、早春に草餅をつくることからきた名称です(蘭山『啓蒙』では加賀の方言とします。草餅の材料はもともとは春の七草のひとつゴギョウでもあるキク科ハハコグサ属ハハコグサGnaphalium鼠麹草であったのを平安期頃からかえてきたという説があります:越谷吾山1775『物類称呼』)。ただし、単なる食用ではなくやはりなにがしかの薬理作用を期待してのものではあったようです(大蔵永常1847『山家薬方集』嫩艾餅よもぎもちの項「毒なし、邪風をさり」)。信州の民俗例では蚊いぶしに使う例もあるようですね(宇都宮貞子『草木おぼえ書き』)。

以下、生薬「艾葉」についての考察は後段にまわすこととします。

2011年10月4日火曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(1)

ヨモギ属(Artemisia
キク科Asteraceaeの多年草であるヨモギ属Artemisiaは北半球に200種、日本国内だけでも30種以上が確認されています(Wikipedia「ヨモギ属」201110月参照他)。Artemisiaの語源として、ギリシャ神話のアルテミス女神とも、また小アジアのカリア総督マウソロスの妻であるアルテミシアともいわれるなど(大プリニウス『博物誌』収載:宗田一『渡来薬の文化誌』1993年より)、古くから人類との文化的な関わりが深かった植物です。多品種が使われていたことが十分想定され、各品種が形態的に近似していることもあり、異同の厳密な考証が困難であった事は考えておくべきでしょう。

1、   漢字について
(なお、以下の考察は白川静『字統』1994年に拠るところ大です)

日本語でヨモギと訓じられる漢字は、白川『字統』だけでも「艾」「苹」「萍」「蒿」「蓬」「蔞」と6字を認めます。いずれも形声文字ですが、このうち「苹」「萍」は浮草の類、また「蔞」は、南北朝代の『玉篇』中では芹の類、竹添井々『毛詩会箋』では蘆とする説が展開され、この3字は元来ヨモギ属Artemisiaではないものと思われます。残りの「艾」「蒿」「蓬」はいずれも後漢代許慎の『説文解字』にも採り上げられる古くからの字で、もともとは種の異同を意味したとして矛盾はしないのですが、文献考証的には文化的な来歴の異同にむしろ焦点があたります(注1)。

古くからある字だけに、例えばキク科シュンギクGlebionis coronariaが茴蒿であり、セリ科コウホンLigusticum sinenseが蒿本であるなど、後代になってヨモギにあたる字を用いて他科・他属を表現することはしばしばです。逆にイヌヨモギArtemisia keiskeanaは菴リョ(クサカンムリに閭)と呼ばれ、艾・蒿・蓬が名称中に含まれません(以上小野蘭山『本草綱目啓蒙』1802年)。今後考察する茵蔯Artemisia capillarisは後代になってヨモギであることを強調する目的で「茵蔯蒿」と、「蒿」字が追加されています(唐代陳蔵器『本草拾遺』:難波恒雄『和漢薬百科図鑑Ⅱ』1980年)。

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他書ですが、「蘩ハン」がヨモギと訓じられます(『詩経』召南に収載:白川静『中国古代の民俗』1980年)。南北朝代の『玉篇』はこれを「白蒿也」とし、日本では古くはカハラヨモギに(輔仁『本草和名』)、また現代ではカハラハハコにも(白井光太郎『大和本草』注釈1975年)、シロヨモギにも(Weblio辞書)、更にはタカヨモギにも(北村四郎:宗田1993より)あて、門外漢には定説が見定めがたい状況といえましょう。いずれにせよ薬剤に使用されることがわずかで、本稿では対象としません。

また「䔥」は白川静『字統』(1994年)でカワラヨモギと訓じますが、『説文』に「艾蒿なり」とあり、ヨモギと近縁に評価されていたようです。「萩」も日本ではハギと訓じますが、『説文』一下に「䔥なり」とあり、もともとはカワラヨモギの類を指していました。『詩経』では祭祀の時に天の神を呼び寄せる香草として使用されています(宗田1993)。

「蓍」は蘭山『啓蒙』で古名アシクサとし、当時はマメ科メドハギ鉄掃筆で代用する旨記載されています。李時珍が「蒿」の近縁であり筮竹に用いる(『説文』は筮を「蓍」で説明しています)ことを指摘しており、牧野富太郎もそれを受けて和名未詳のヨモギ属として記載。土井光知は蓬莱と同じであると論じました(宗田1993)。