2011年11月30日水曜日

エビデンス、という不安

今日のNHKクローズアップ現代は裁判の再審開始を題材としてエビデンスの開示が話題になっていました。Wikipediaで「エビデンス」を検索すると以下のような説明がなされており、なるほどな、と思わされます。

「エビデンスは、証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語 "evidence" に由来する、外来の日本語。一般用語として使われることは少なく、多くは、以下に示す分野における学術用語や業界用語としてそれぞれに異なる意味合いで使われている。」(2011年11月30日検索)

決して国内だけの趨勢ではなく、背景として米国でも同一領域の同じ対象に対してはやはり「evidence」と呼んでいることに注意が必要です(あくまで向こうが本家であって、こちらでこなれていない部分が日本流になっている、ということではないでしょうか)が、確かに学問間でtranslationalにはエビデンスという用語の定義の詳細を詰めているわけではないように思います。その意味で外来の日本語、というよりは、現時点でジャーゴンとしての側面をもう少し強調した方がよさそうです。

ウィキペディアで取り上げられたような医学領域、番組で扱われた法曹、そして歴史学は、いずれも資料からの実証・帰納的手続きが重視される領域で、本質的に「エビデンス」についての考察が有意義な領域であると考えます。医学におけるEBM(Evidence Based Medicine)はここ十数年で一般メディアでも見かけるようになりました(1999年に創刊した邦文誌EBMジャーナルは概念の一定度の普及を理由とし2008年に休刊となったことが象徴的です)。やはり近年普遍化してきた診断・治療のガイドライン化(臨床行為の客観化を目指す潮流の中で、診療記録の客観化を目的としたPOS Problem Oriented Systemと並び立つ2本柱の一つでしょう。診療行為を行う医師の客観的評価システムとして期待されているのが学会による専門医制度と捉えられます:注1)と「そりのあう」考え方であり、用語としてのEBMを印籠か錦の御旗のように掲げた言動は、21世紀以降医療の現場ではかなりみかけるようになっています(注2)。
「エビデンス」を鍵概念とした20世紀末から現在までの医学などでの思想潮流の底にあるのは、「客観化」です。実証的態度にとってこれまで自明の存在であった帰納的手法への懐疑と、更なる方法論的進展、とひとまずは表現できるでしょう。

①material object物質資料ないし外界(実態として実在するものとして扱う前提が存在します)をevidenceとして扱うためのtext化(医学の場合はPOS、歴史学においては史料批判)、②エビデンスとしてのtextを作成する主体と利用する主体の分離、③エビデンスをより広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定しようとする立場、④エビデンス利用にあたっての情報リテラシーと、その格差からくる権力構造の発生(エビデンスは誰のものか)など、本質的に上記諸学問間で比較検討できるテーマは多いのではないでしょうか。本ブログの根っこに関わる話ですので、時間をかけて各テーマごとに書いていければな、と思います。
ぶっちゃけていってしまえば、医学の中だけでみた「エビデンス」は他所からみたら違ってみえるかもよ、ってことです。いきなり生薬の話から始まって、あやしいブログだなあ、という印象を持たれたかもしれませんが、さらに奇奇怪怪なものにしてしまうこと必定でしょうか?

注1 POSは1968年米国人医師RLウィードによる提唱。
注2 ブログ『内科開業医のお勉強日記』中の記事「EBMジャーナル最終号:EBMの行く末への不安」2008年10月11日は、EBM内側からの現状の批判的直観といえましょう。エビデンスを道具として業をたてていく身として、このような直観は重視すべきことなのです。

2011年11月29日火曜日

近世小田原の医師

近世小田原藩は当初から家中に医師をかかえていました。慶安年間から安政年間にいたる小田原藩の諸分限帳のうち、初めは13名(慶安年間か・「(大久保家藩士録)」板倉文書)もいた医師は1724年には8名(「順席帳」個人蔵)となり、幕末1858年には6名(「順席帳」小田原有信会文庫)と徐々に減っていきます(土井浩1999「大久保氏の家臣団構成」『小田原市史通史編近世』)。記載される医者・医師・奥医師らは禄を伴う家の「職」であり、天明二年の家中法度では町医の二男三男を養子で貰うことについて「不苦候」とこれを認めていますが、それはこの職業が親から子へ継承されることが前提であったからこそです(「吉岡手控」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995年)。三都から離れた小田原の医療状況は良好とは言い難かったようで、1633年時の小田原藩主稲葉正勝が吐血(注1)した折、徳川家光は彼を江戸へわざわざ呼び戻しています(下重清1999「稲葉正勝の小田原入封」『小田原市史通史編近世』)。

量より質、というわけでもないのでしょうが、19世紀に藩校ができると医学教育もカリキュラムに含まれます。山崎 佐(やまざき たすく)氏の著作『各藩医学教育の展望』(1955年国土社)には小田原藩のこととして、以下のような記載があります。

「文政五年(西紀一八二二)藩校諸稽古所(又集成館とも云う)を創立し、年給銀二枚で医術教師二名を置いて、漢方医学を教えた。明治二年六月文武館と改称し、年給四両で医学教師一名を置いた。洋医学志望者は、藩費で他国へ遊学せしめ、また一般に自費遊学を許した。」



天保年間作成とされる「小田原城図」には集成館校庭に「ヲヤクエン(御薬園)」があり、まがりなりにも一定度整った内容であったとは思われます(注2:高田稔1999「人びとの教育と学問」『小田原市史通史編近世』)。ただし、文政五年の御定目によれば、諸稽古所の講義は朱子学が基本とし、「材性は人々同しからさる故、余力ある輩は聖経賢伝之外史子等より本朝の書迄も博く渉り、世道人心に関るは勿論の義、兵備・医業・水利・銭穀之事迄も心懸け、有用の人となるべき志を立可相励事、」と医学はあくまで+αの位置づけでした(『小田原市史 史料編近世Ⅰ』収載史料No262)。

1863年、医学学頭富田元道の嫡子晩斎は、大坂の適塾へ入門し蘭学を修めます。文政から安政年間にかけ市川隆甫・市河魯庵・市河玄智らはいずれも蘭学を習得し、魯庵は藩校の医学学頭にまでなっています(高田前掲1999)。蘭学の伝統は明治にまでおよび、明治二年の藩校改革では、文武館の稽古日で医学は月3日、九つ(正午)からと定められ、カリキュラムが作成されつつありました(片岡文書「(小田原藩幕末重役手控)」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995)。試みは廃藩置県で途絶えるわけですが、『明治小田原町誌』では1876年の小田原の医師は11戸。1885年の『皇国地誌残稿』でも神奈川県内の各村に数軒ずつ医者がいたとのことで(森武麿2001「殖産興業と地租改正」『小田原市史通史編近現代』:注3)、前代からの苦闘の結実のように思われます。

注1 消化管領域からの出血が吐き出される吐血と、肺・気管支からの出血である喀血は現代でもしばしば混同されます。正勝は30代でありながらその後半年の経過で痰など気道症状、るい痩などをみせ1634年早々には他界しており、結核からの喀血は有力な鑑別に挙げられるかと思われます。

注2 上田三平1930『日本薬園史の研究』では小田原藩の記載を認めません(長崎大学薬学部編2000『出島のくすり』)。敷地も小さく薬学史上の意義は限定的ですが、地方史の研究成果により分布図上の空白が埋まる貴重な成果と考え、高田氏の業績を照会する次第です。

注3 1874年制定の医制では旧来からの漢方医にも移行措置として仮免状が交付されており、1876年の医師数は漢方・蘭方双方の医師を含んだ数値です(島崎謙治2011『日本の医療』)。

2011年11月28日月曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(12)

<薬理・薬味・薬能>

『名医別録』には「煎じて用いれば、吐血、下痢、下部のチク瘡、夫人の漏血を止め、陰気を利し、肌肉を生じ、風寒を辟け、子を儲ける」との記載を認めます。『日華子本草』では「帯下を治し、霍乱、転筋、痢後の寒熱を止める」とあり、下焦の虚寒に対する薬剤で,
止血も経を温める効果からきていると評価されます(難波1980)。
 上記のような漢方上の知見を受けてとおもわれますが、近世以降の民俗例でも灸治以外での使用を認めます。1847年大蔵永常の民間応急処方集である『山家薬方集』には、多数ある灸治例に混ざるように下記方途が出てきます。

痢病の治方「生姜壱匁よもぎ五分常のごとくせんじ用ひて妙也。」
のんどのはれたる「生艾をしぼりしるをのんでよし。」
 他、しらみに対して「艾弐匁醋(ス)にてせんじつめたる汁ををつけて妙也。」

 現代においても、埼玉県では「水あたり」に対し、「ヨモギやフキ(蕗)の葉の汁をしぼって水に入れて飲めば水あたりをしない」、また止血目的に「ヨモギの葉をもんで傷の部分につける」ということが行われたようです(「民俗調査報告書」『埼玉県史』)。

  このような使い方は、別記の通り漢方が主流でない地域の使用例とも類似しているようには思われます。それにも関わらず、基礎研究においてevidenceの集積は比較的進んでいないのではないでしょうか。
A. princeps PAMP.の場合精油0.02%を含み、その半分はシネオールです。基礎研究で
は体温降下作用を認めますが、作用量が致死量に近く積極的な解熱薬にはなりません。また止血効果も証明できないようです。ヒスタミンの毛細血管透過性の抑制、グラム陽性球菌、皮膚真菌に対する成長抑制作用などが報告されています(難波1980)。艾葉について近年の研究をPubMedで通観すると、抗腫瘍効果や糖尿病の抑制効果に着目した論考が多いようです。

 単剤で効果が顕著でないこともあってか、金匱要略収載の艾葉含有処方は多くなく、芎帰膠艾湯と柏葉湯のみで、うち柏葉湯は馬糞を使用するためか現代保険収載は前者のみになっています。君薬になっているものがないこともあって、吉益東洞は艾葉の効果を「得て知るべからず」としました(吉益1763『薬徴』大塚敬節2007年校注)。

2011年11月22日火曜日

2人称敬称について:追記

さて、ヨーロッパの2人称敬称について、です。前回までで、①ヨーロッパの2人称敬称はもともと2人称複数が先で、その後3人称が取り入れられる、②その受容の仕方に言語毎の違いがあることを類推しました。2人称敬称の由来がどこか、というところまで議論を進めていたわけですが、なかなかどうして、調べていくと興味深いことはまだまだ、ありそうです。出典がネットを大幅に含みますが、素人であってもできる限りロジカルに検討できればと思います。

①ドイツ語の2人称複数での敬称
前回まで確認できていませんでしたが、ドイツ語も遡ると2人称複数Ihrを敬称として用いていたようです。ネットでも複数hitしますが、興味深いのは農芸化学者本多忠親氏のHP中にある「オペラの言葉」です。

「ドイツ語もイタリア語も本来はフランス語と同じであったようで、オペラの世界ではほぼ二人称複数形を敬称に用いると思えばよいのだが、現在話されている言葉では、いずれも二人称複数形を単数の敬称に用いることはなく、三人称から派生した別の形を用いるので話がややこしくなる。」
オペラなので、比較的最近の頃まで2人称複数を用いていたのですね。郁文堂1988年発行の『独和辞典』でIhrを検索すると、17世紀頃まで目上に2人称として用いていたのが、その後目下に使うようになった、とのことでした(英語史学者堀田隆一氏のブログ「英語史ブログ」をみると、こういうのを指して敬意逓減の法則というのでしょうか)。

②スウェーデン語
北ゲルマン語群中のスウェーデン語は、もちろん古代ローマ帝国の版図外であったわけですが、なんと現代でも2人称敬称は2人称複数を用います(HP「talar du svenska?」参照)。
同じ北ゲルマン語族中でも、現代デンマーク語は3人称複数由来を用いるようです(HP「デンマーク語独習コンテンツ」)。ここいら辺、3人称の受容が言語毎に違うという考えと矛盾しないようですね。

さて、こうなると難しいですね。北・西ゲルマン語派も含めたヨーロッパ一体で、かっては2人称複数が使われていた可能性がありそうです。印欧語族スラヴ語派東スラブ語群のロシア語・ウクライナ語(Wikipedia「ロシア語」「ウクライナ語」)、また印欧語族バルト語派東バルト語群であるリトアニア語も、2人称複数を敬称として用います(Wikipedia「リトアニア語」)。ちなみにロマンス語の東端ルーマニア語は、主格以外は2人称複数が敬称という、やや崩れた形をとります(HP「ルーマニア語」)。
これまで得られた情報から類推する限り、2人称複数を敬称とする淵源は、二つ仮説が残ると思われます。

A、後期ラテン語からの発生
定説はこちらです。前回引用したように、一般に古典ラテン語では複数形を尊称として用いる伝統は無いとされます。中途から皇帝らは自分らのことを複数であらわすようになりますが、それを受けて皇帝、教皇、司教に対しtuの代りにvosを用いるようになった(「敬称の複数 pluralis reverentiae」)ことが、中世ラテン語で2人称複数が敬称として扱われる由縁です(國原吉之助1975『中世ラテン語入門』)。使われ始めた年代が手元に資料が無いのですが、ネット上4世紀から、と記載されているものがあり、後期ラテン語Late Latinから、ということになるでしょうか。
この説でいえばゲルマン語派やバルト語派・スラブ語派の状況は、ラテン語からの2次的影響ということになります。実際、歴史的な経緯からドイツ語にはラテン語由来の外来語が500以上存在し、言語としての影響力からもその可能性は現状で完全には否定できないでしょう。また、ゲルマン語派の最古のまとまったテキストは4世紀が最古(Codex argenteus: 河崎靖2006『ゲルマン語学への招待』)とのことで、史料的遡及に限界もあります。ただし、古典ラテン語で使われていないから、という根拠は弱い部分があるようにも思われます。

B、印欧語祖語からの伝統
あまりにも分布が広範で、ここまでの情報ではこちらも完全に否定はできないように思います。

両者のどちらが正しいか、確認するためには下記の確認が必要でしょうか。

即ち、印欧語族でラテン語の影響のない言語に2人称複数を敬称とするものが、複数みつけるか、もしくはみつけられない。

、、、仮にみつけた場合、系統言語学的評価でいつごろから使用開始されるに至ったか推測できる可能性があります。いずれにせよここまで来るとかなり膨大な作業になってきますね。中近東・南アジアの分析なんかどうなのかなあ、、、(印欧語族インド語派バハール語のネパール語は敬称こそあるものの、原理はこれまでと異なるようですね。他はどうなんだろう)?

追記
堀田隆一氏のブログ「hellog~英語史ブログ」ではT/V distinctionについて、 ヘルムブレヒトの興味深い研究を紹介しています。上記のような古典的伝播論とは異なった切り口で、ぜひご一読を。
Helmbrecht, Johannes. "Politeness Distinctions in Second Person Pronouns." Deictic Conceptualisation of Space, Time and Person. Ed. Friedrich Lenz. 2003. 185--221.

漢方生薬考 ヨモギ属(11)


モグサを日本産ヨモギへあてることが古来より安定していたためか、近世前期・中期の薬種同定事業、朝鮮との薬種貿易でも「艾」は対象にはなりません(田代前掲1999)。輸入する必要のある薬種とは扱われず、かえって17世紀に入ってからモグサの国内生産・流通を確認できる文書が出現してきます。まず名産地として、1691年出版の『日本賀濃子』には近江名物として「伊吹蓬艾」が挙げられています(もう一つの名産地として知られる下野標茅原は1697年『日本食鑑』に近江産に次ぐ扱いででてきます)。貝原益軒1708『大和本草』では「江州胆吹山ニ甚多シ其麓ノ里春照ナトノ民家ニ多クウル」との記載で地元農家の小規模販売の様相ですが(1754年の『日本山海名物図絵』でも「山下の民家に(中略)もぐさとて売之」と同様のニュアンスを認めます)、その後近松門左衛門作『椛狩剣本地』(正徳41714)年)では下記のような口上があり、町への艾売り進出が窺われます。

「旅人衆が大勢門に立てじゃ。おっとがてんと見世先にすすみ出、いぶきもぐさの功能を商ひ口にぞのべにける。凡諸国に蓬おほしと申せ共もろこしにては蘄州四明が洞。我朝にては当国江州伊吹山周の幽王の吉例を以て、三月三日に刈始五月五日の露を請日にさらし月にほし、(中略)此もぐさのゐとくには時をゑらはず日をきらはず思ひ立つ日に人神なし。(中略)くすし入らずの御重宝捨るとおもふて只六銭。」

さらに踏み込んだ生産・流通体制もあり、大垣藩は17世紀前半からもぐさの生産流通管理を行っていました。揖斐郡春日村文書には「もぐさ20726日納 寛永131636)年より上納」「伊吹もぐさ3俵(中略)天和21682)年肥後守様代より上納」などの記載があり、大垣藩は春日村など揖斐郡西山筋の他、同郡北山筋(坂内村、藤橋村、久瀬村)からも「もくさ」上納を受けており(宮川家文書「北山筋村々古来書御帳」1700年:寛永161639)年より山年貢として上納開始)、もぐさ生産の藩による管理が一定の水準に達していたものと思われます。孤松子1685『京羽二重』は当時の町案内ですが、室町綾小路と三条白川橋にもぐさ屋を2軒認め、そのような生産物の集約が背景にあるものと思われます。そのような市場競争の結果、香川修庵1729『一本堂薬選』では看板に伊吹艾とあっても実際に売られているのは皆美濃、越前の産であることが指摘されています(国香寛1839『灸功編』でも類似の指摘を認めます:織田1998では近江での生産例を示し、本表現には誇張が含まれていることを示唆しました)。ただし越前もその後産地として衰退していったようで、1836年の冥加銀半減願(斉藤寿々子家文書・大野歴史民俗資料館蔵)ではヨモギの産出減とモグサ業者の減少が描かれています(明治6年の内務省勧業寮物産調査では富山が生産量首位で福井は2-3位。滋賀・岐阜は産量の点で両県に全く及びません)。

東洞1771『薬徴』では内服は芎帰膠艾湯のみの記載で、弁誤で灸法についての議論(即ち、病状の寒熱を評価したうえで灸法の適否を決定せよ)を展開しています。品考では「売るところのものは他物を雑ゆ。正すべし。」との記載があります。

蘭山1802『啓蒙』艾ではヨモギの他モチグサ・フツ・ブツなど諸名称を訓じます(注8)が、淡路モグサを称揚し、近江伊吹山産のものをヌマヨモギ、蔞蒿A. selengensisであって艾ではないとしました(宗伯『古方薬議』もこの説を支持しています)。現代日本ではむしろタカヨモギと訓じられることの多い蔞蒿ですが、牧野1982ではこれをオオヨモギにあてています。蘭山の観察は「苗ノ高サ一丈余ニシテ葉モ長大ニシテ尺ニスギ、(中略)香気少クシテ」とオオヨモギの特徴を的確にとらえており、オオヨモギの分布が近畿までと西限に近いこと、京都在住の蘭山が東方の見慣れないオオヨモギを見てこれをヨモギと異なるものと評価し、かつヨモギより劣る品ととらえたものと思われます。

さて、国産ヨモギを薬種として品考するとき、蘭山のように産地だけではなく種の違いにも目を配る必要があります。貝原益軒が『大和本草』後に書いた『養生訓』(1713年)では、
「名所の産なりとも、取時過ぎて、のび過たるは用ひがたし。他所の産も、地よくして葉うるはしくば、用ゆべし。」
として、成長して大きくなりすぎたものは良くないとの記述になっています。益軒の時点では種が違うというアイデアまで到達していなかったようですが、実は別の品種である、との認識は先行する1680年前後、農作物の生産に深く関わる村役人層の観察に初出があります(古島敏雄校注1977『百姓伝記』)。巻十二中「もぐさを作る事」では、「もぐさ種両種見へたり。」として、一方を「葉の大にしてやう大まかにきれ、」「にほひうすく、にがみもすくなく、ほしてもむにわた少なし。」もう一方を「葉小葉に見へてえうのきるる事こまかなる有。」「にがみ多く、ほしてもむに真(わたカ)多く、にほひふかきやうなり。」と記載。現代植物学におけるヨモギとオオヨモギのこととして、まず間違いないものと思われます。寒川辰清1734『近江與地志略』でも伊吹モグサの製造販売で原料にオオヨモギを使っていた記載があるようで(織田1998)、先述した19世紀蘭山の記載は17世紀後半から18世紀のこのような流れを受けて出てきたものでしょう。飯沼慾斉1856『新訂草木図説』では美濃北部吾北山の山人は「モグサの原料としてオオヨモギを貴ぶが、ヨモギに比べ香味劣る、、、」(織田1998の訳)と記載しており、幕末までにはヨモギ/オオヨモギの弁別はすでに安定したものになっていると評価してよさそうです。
 興味深いのはモグサ主生産地の推移で、近世から現代にかけ(近江・)美濃→越前→越中→越後と移動します(織田1998・織田1999)。このような移動の原因として、織田19981999は北陸でもともと産量が多いことと、冬季の労働力が期待できることを挙げていますが、旧産地衰退の原因としてヨモギに対する高採集圧のもとヨモギ群落が徐々にオオヨモギへ遷移し、その結果薬種に供せなくなることが見逃せないと考えます。
このような過程を経て、現在日本産では上述のようにヨモギA. princeps Pamp.とオオヨモギA. montana Pamp.の葉を乾燥したものをともに正品とします。伊吹山麓の柏原は中山道の宿場町でもあったことから名産品としてのモグサを商う一角が形成され、地方を回る艾売りもいました(落語「亀佐」:HP世紀末亭)。天保14年の同宿における職業記録ではもぐさ屋は9軒。屋号はいずれも亀屋であったようです(HP『旧街道道草ハイク』参照:安藤広重『木曾街道六拾九次之内柏原』にも描かれています)。江戸の艾販売は紋様が同じことから命名された団十郎艾が有名でした(真柳誠2005「江戸のもぐさ屋」『日本医史学雑誌』51(1))。

後記:出典など、織田隆三1998「モグサの研究(10)」全日本鍼灸学会雑誌48(4)、および織田1999「モグサの研究(11)」全日本鍼灸学会雑誌49(2)によるところ大です。
  
注8 
「フツ」はヨモギを指す九州方言で、現在まで至る。琉球方言の「フーチバー」も、「フーチ葉」の義であり、同根と思われる(湯浅浩史2004『植物ごよみ』)。

2011年11月20日日曜日

日記:ホークス優勝おめでとう!

11月20日曇 日中は暑いくらい。


 日中は運転免許更新にでかけました。電車内でノモンハン会編『ノモンハン日記』をやっと読了。近現代史は一次史料の厚さが他と全く違うことを痛感。アプローチをどうしていくか、まだまだ詰めるところはたくさんありそうです。

 ホークス、ついに優勝、日本一!最後の最後までヒヤヒヤしたけど、やってくれました。息子にとっては初めてのホークス日本一。来年もいい一年になりますように、、、、、。

2011年11月16日水曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(10) 艾葉

平安初期に編纂された『新撰姓氏録』に欽明朝の事績として明堂図がもたらされた旨記載されているのが、記録上鍼灸が取り上げられた初見ということにになります(関晃1956『帰化人』2009年再版)。記紀に記載されているわけでもなく信憑性は評価困難ですが、灸治はその後比較的短期間で国内に広がったらしく、神亀3年(726年)山城国愛宕郡雲下里計帳や、天平12年(740年)越前国江沼郡山背郷計帳でも「灸」の記載を認めます(前者では45歳正丁の戸主の右手に「灸」の痕跡あり:新村拓1985『日本医療社会史の研究』同1983『古代医療官人制の研究』)。また宝亀年間(771-772)の東大寺写経所写経生壬生広主の治療でも「治焼」とあり、灸治が推定されています(丸山裕美子1998『日本古代の医療制度』)。

 灸治に用いたモグサ熟艾・温灸艾は葉裏の繊毛を調整したものですが、治療法の淵源からも当初は輸入、その後国産となったことがモデルとして想定されます。近世、大槻茂禎1817は『灸艾考』でその変化を延喜の頃からではないかと考証しましたが、上記のような灸治の普遍化からは、より早い時点で国内産を用いていたと考えるべきでしょう。延喜式巻第37典薬寮の条文中には「熟艾」が挙げられているにも関わらず諸国進年料雑薬では記載が無いのは、朝廷からの頒布に頼らない水準までヨモギ/モグサが各所で採取され、一定の階層までには使用されていたことを示すものと考えます(ちなみに「熟艾」の初出は757年養老令中の軍防令備戎具条、ただし発火用のホクチ火口として)。空海797『三教指帰』「瞳矇を鍼灸して此の直き荘に帰せしめよ。」、山槐記(中山忠親の日記)仁平21152)年96日条「実長朝臣ノ灸治暇ノ事ヲ申ス」など、平安期以降になると灸治の記載は事欠かないようになります。

 そのような状況で源基となる植物について、古く平安初期の輔仁『本草和名』や順『類聚和名抄』から、「艾葉」はヨモギと訓じられました。以後近世に至るまで、国内において一貫して「艾」は日本産の「ヨモギ」で説明され、中国のものとは別種とする視点は、全くありません(なお「もぐさ」の初出は1275年『名語記』「やいとうのもぐさ如何。熟艾とかけり」とされます)。ヨモギの産地について、基本的に近世まで不明ですが、10世紀の歌人藤原実方は『御拾遺和歌集』収載、後に百人一首51番となった著名な和歌で「いぶきのさしもぐさ」を燃ゆる思いとかけていて、当時から地名としての「いぶき」とモグサを結び付けるイメージがあったと思われます(注)。

1573年茨木二介『針聞書』には40の病態に対し39の生薬が内服用に用いられていますが、その中にはヨモギ属は含まれていません(長野仁・東昇2007『戦国時代のハラノムシ』)。以後も内服に用いるヨモギは灸治に比べると貧弱な状況が続きます。

 『日葡辞書』ではYomogui「灸をすえる(botoes de fogo)のに用いる草」、Qiu「ある灸のすえ方(botam de fogo)」QiujiQiuji suru灸治する」Yaito「ある乾かした草ですえる灸(botao de fogo)」などの用例が確認できます(現在でも愛媛では方言でヨモギを「ヤイトグサ」とします:都丸十九一1971)。安土桃山期の曲直瀬道三は『鍼灸集要』『指南鍼灸集』。古方派も後藤昆山など灸治を称揚し、近代にまでそのような状況は継続することとなります。

注  「いぶき」は下野国の山を意味するとする異説あり(Wikipedia『藤原実方』)。

2011年11月9日水曜日

古地図紹介

2011年11月3日神保町で購入した古地図について考証したいと思います。この場合写真が無いと様にならないのですが、古書・古地図取扱いのMurray Hudson社のHPで参照することが可能なようですので、関心がある方は参照ください。

さて、購入した古地図は1861年刊行の「Stanford日本図」の複製です。金額が1300円台と手頃で、インテリアになるかな、ということで購入しました。版面作成者はJ &C Walker(図面右下に表記あり)。LondonのEdward Stanford刊行の複製ですが、上にあげたMH社のHPをみると、Walkerの作成した同じ版面は1835年が最初にあるようで、Stnford版自体再刷のようです。地図の特徴を思いつくままに列挙していきましょう。

1、販売されている他の版では本州他各島の海岸線は手書きで色線が縁どられていますが(本州が黄色で九州が水色など、確認できる3枚とも同じに塗られており、個人の趣味ではなさそうです)、この地図にはそれがありません。販売にあたっての完成品であったか、疑問な点があります。
開港地と重要地を指すと思われるNagasaki長崎、Osaka大坂、MEACO都、Kanagawa神奈川、YEDO江戸、Hakodate箱館は赤線で囲まれています。同じ1861年の別図では塗り方が異なり、これも手書きと思われます。

2、初版が1835年であることに矛盾しませんが、拡大図として江戸や京都ではなく長崎と根室・国後を選んでおり、また描かれている街道が長崎-江戸の1本のみです。
(この点、1861年刊行時点では古きに失しているのかもしれません)

3、1821年完成の伊能図が海外に紹介されたのは1840年、Sieboldがオランダで刊行したものが最初とされます(Karte vom Japanischen Reiche 石版着色:織田武雄1974『地図の歴史日本篇』)。本図では本州北端から北海道は含まれていませんが、1851年には北海道全体も含めたAtlas von Land-und Seekarten vom Japanische Reicheが刊行されています。イギリスに伊能図が認知されたのは文久元(1861)年アクテオン号来航以降であって、オランダより遅いとの評価がなされていますが、実際アメリカでも1850年代には伊能図系列の地図が出版されているのに(Lowry日本図1853年、Johnson's Japan石版1855年:ただし前者は高橋景保1809年日本辺界略図の完全な写しで、Siebold1832『日本』由来ということになります)、イギリスでは1861年になってもこのような図面が刊行されていたということになり、文化の相互交渉の点で大変興味深いと思われます。織田氏の考察を参照するとロシア・クルーゼンシュテルンの原図を使用して北海道も含めた自前の地図を作成した後、そこからなかなか離れられなかったとのことですが、、、。実際、1820年代までの西欧の日本地図はかたち、という意味ではそれ以前のものと似たりよったりで、それ以降30年ほどの間に劇的な進歩がみられたということになりますね。本地図の特徴を一言でいえば、「重要な点のみ西欧が測量し、それ以外は博物学的に情報を集めて作成した」、作成時点においては最新と信じられ、その後短期間で情報が古びていったもの、といえるでしょう。

4、さて、以上の点に注意して地図をくわしくみていきましょう。おおよその外形・位置関係は測量されているので、大まかな位置関係はよさそうですが、九州(特に長崎周辺以外)や四国、中国西半、房総・伊豆半島など、いびつな形をしています。対馬・五島・隠岐はかなり強調され、特に隠岐は出典が『海東諸国記』か、と思わせるような「丸っ」です。都市名は各国毎に数か所表記され(Sagani相模ではOdawara小田原とUraga浦賀)、河川についても大きなものは名称が書かれ(R. sinaogawa信濃川)、また相模でも相模川と酒匂川で矛盾しないところに2本描かれるなど、出典自体はある程度しっかりしていそうです。桜島は九州と陸続きになっておらず、湖は琵琶湖・霞ヶ浦・サロマ湖・浜名湖・宍道湖など大きなもの以外に諏訪湖や猪苗代湖らしきものも描かれています。知多半島・渥美半島、志賀島、児島半島なども意識されていて、鎖国中の制作にしてこの水準はたいしたものだ、と素直に思わされます。山岳ではM. Fouzi富士山が12000フィートと高さの記載あり。奥羽山脈、北アルプス・南アルプス、関東山地は強調されていて、他の山岳表現もある程度蓋然性がありそうですが、その一方中国山地・四国山地・九州山地などは表記されていません。海岸線が全般に起伏豊かに表現され、実際のリアス式海岸地帯とは区別がつきませんが、新潟平野部についてはむしろ当時低湿な氾濫原が広がっていたことがわかる表記ともいえます(加賀の海岸線も同様ですが、氾濫原はどうだったのでしょうか)。

5、YESO蝦夷地は内陸の表記に乏しく、当時の日本からの情報を反映しているようです。Hakodate箱館人口50000、R. isikari石狩川やVolcano B.噴火湾、Okosir奥尻島、C. Soya宗谷岬の記載あり、他地名については、西欧人の命名者由来と思われる地名が散見されます(C.Froen襟裳岬)。

6、NIPHON ISLAND本州の地名は概ね日本語由来ですが、房総半島野島崎?がC. Kingであるなど、100%日本語というわけでもありません。日本語の発音表記も苦労の跡がみられますが、そのせいか鹿島がKosima、相模がSaganiなど、単純な間違いも多々あります。荒川がR. Toda戸田川と表記。また琵琶湖はL. Oittz即ち大津湖と表記。

7、16世紀のテイセラ図以来、地名におけるハ行の表記はFでつづられ、当時の発音に対応していたわけですが、1861年のこの地図でもそれが続いています(Fammamats浜松、Fisen肥前、Farima播磨)。安田章氏(「日本語の近世」『日本の近世1』1991年)をみると「は」行を上下の唇をこすらせて発音していたのは江戸時代初期のことで、1652年刊行の伝統芸能についての史料で「はひふへほ 唇あわせす」との記載があるようです。ただし文語性の強い単語ではそうでもなかったようで、Stanford日本図の記載が実際の発音由来なのか、以前の資料を参照したためかは確定しがたいように思われます。
、、、ただしそこをあえてつっこみましょう。地図中でHが使われているのが2か所。うち1か所は幕末に注目されるようになった箱館であり、もう1か所は播磨灘Harima Nadaです。このうち後者は国名Farimaと同一語根と認識されなかった故の錯誤と思われます。やはり当時の発音はHで、Fを使っているのは昔の表記を引き写しているようにおもわれますが、いかがでしょうか?

、、、、古地図は本当にみていて飽きませんね。今後とも機会があれば別の地図で考証をこころみてみたいですね。

2011年11月4日金曜日

閑話休題 漢方以外のヨモギ(1)アジア

1、モンゴル
インターネットでモンゴル伝統医学とヨモギ属の関係を検索するとかえって、無いため?にヨモギを灸に用いないという記載が複数あります。たとえば、女性鍼灸臨床研究所のHP「楽っ子堂治療室」にはシリンゴル盟蒙医研究所の訪問記が掲載されていますが、そこでもウイキョウなどが灸に使われているとのこと。他にも馬糞やツァガンオールLeontopodiumの仲間が使われるようです(他、Wikipedia「モンゴル医学」の項を参照)。
ところで、モンゴル・内蒙古の環境において、植生の極相(安定した状態)は多年草です。砂漠化した植物による被覆率の低い環境、あるいは塩害によって土壌のアルカリ化が進んだ環境においては、ヨモギ属はむしろ環境への耐性が高いため他の植物を圧して群落の主体となりやすく、A. macrocephalaA. frigidaマンシュウアサギリソウ、A. salsoloidesサバクオトコヨモギ、A. areneria、などは現代内蒙古やモンゴルでよくみかけるようです(吉野正敏1997『中国の沙漠化』、藤田昇2003「草原植物の生態と遊牧地の持続的利用」『科学』73(5))。1690年代イエズス会宣教師パランナンは康熙帝の韃靼旅行に同伴しましたが、その際アルモワーズ(ヨモギ属)とヨーロッパのそれとは違ったアブサン(ニガヨモギ)を渓谷に認めた旨1723年の書簡に記載しています(矢沢利彦編訳1977『中国の医学と技術』収載第5書簡)。
昆明植物研究所によればA. argyiは中国全土のみならず蒙古・ロシアにも分布するとのことでもあって、艾蒿、ないし他のヨモギ属が灸治に使用されないのはむしろ別に理由があるように思われます。

2、チベット
1993年青海省での薬用資源植物の調査(難波恒雄・小松かつ子編著2000『仏教医学の道を探る』)では「蒿」字がつくものが頁蒿、黒沙蒿(牛尾蒿)、角蒿、紅花馬先蒿など確認されますが、そのうちヨモギ属は黒沙蒿A. ordosica Kraschen.のみです。ただしチベットの製剤(蔵成薬)としては、五脈緑絨蒿を含む二十五味松石丸などもあり、内服製剤としてまだまだ多くの例があるものと思われます。ちなみに肝炎に使用する蔵茵蔯はリンドウ科Swertia musotii FRANCH.でありヨモギ属ではありません。チベット名ギャガル・ティクタは「インドのティクタ」を意味するとのことです。ちなみに灸について、記載を認めませんでした。
                                                           3、インドネシア
植物薬としてA. vulgaris L.が挙げられます。インドネシア語でbaru cina(中国の木)と表記され、中国医学の影響下に導入されたと思われます(Setiawan Dalimartha, 1999: Atlas tumbuhan obat Indonesia Jilid1インドネシア薬用植物アトラス1巻)。その他、ジャムゥ(インドネシア伝統医学)ではA. cina Berg. セメンシナ(「中国の種」)がMungsi arabアラビアムンシと呼ばれ、解熱薬、駆虫薬、として他生薬と配合して使用され、また月経不順、口内炎にも用いられます。唐代『新修本草』に初出する生薬鶴虱カクシツは(現在のものと異なり)もともとセメンシナの花であったとの考証があります(趙イツ黄1957:難波1980より。なお現在セメンシナは昆明植物研究所など現代中国では蛔蒿にあてられ、専ら駆虫薬として使われます)が、原産地は中国新疆・カザフスタン・キルギスタンなど西域で(GRIN Taxonomy for Plants参照)、インドネシアへの流入が中近東由来か中国由来かは名称からすると微妙と思われます(高橋澄子1988『ジャムゥ』)。

4、ベトナム
伝統医学は中国の影響が強く(北部と南部で程度が異なります:『Vietnamese Traditional Medicine1993)、ベトナム語による傷寒論の解説本が一般の書肆で容易に入手可能です。上記概説本の薬種の説明(35種)中にA. vulgaris L.を認めます。ちなみにベトナム語でNgai cuuは漢字「艾蒿」のベトナム読みです。

5、ネパール
現地語Tite patiは学名でA. vulgarisにあてられています。ネパールの標高1500-3600mに分布。生理不順、駆虫、痙攣防止、健胃薬、眠気覚ましとして用いると記載されています。シヴァ、ヴィシュヌ、スーリヤに供えられる植物であり、ヒンドゥー教徒は葬式にも花や葉を用いるとのことです(以上、TCマジュプリア1996『ネパール・インドの聖なる植物』)。 

6、インド
サンスクリット語でNagadamaniであるA. vulgarisを使用。アユル・ヴェーダのいわゆるトリドーシャ説においてはピッタの補充に使用され、下腹部を暖め月経不順などに有効とのことです(David Frawley et al.,1986: The Yoga of Herbs 邦訳2000年)。他、タラゴンA. dracunculusが通経・利尿・駆風薬として、ニガヨモギA. absinthiumが駆虫・駆風・鎮痙薬として使われます。

つまり南アジア・東南アジアから東アジア、さらには別途記載するようにヨーロッパにかけてまで、A. vulgarisを薬用に使用する広大な分布圏があるわけです(WikipediaでArtemisia vulgarisを検索すると実に多国語で項目がたてられています)。A. vulgaris L.は現代中国では北蒿と訓ぜられ(HP『中国植物物种信息数据库』)、ヨモギやチョウセンヨモギとは一応近縁種、ということになりますが、リンネが命名して以降現在に至るまで使われている、相当範囲の広い概念であることも意識しておいたほうがよさそうです。ただし薬用としての使い方から呪術的な方途まで、地域間で違いがかなり少ないことは注目すべきでしょう。

漢方生薬考 ヨモギ属(9)

C、艾葉

 『説文』に記載のある「艾」ですが『神農』に記載を認めず、『名医別録』中品が初出である点で茵蔯蒿や青蒿と来歴の異なる側面があります。使用法も異なって、内服もありますが当初から灸法の主薬である点が大きな特徴です。治療についての明確な初出文献は管見の限り前漢初期BC2Cのものと思われる馬王堆から出土した『五十二病方』(小曽戸洋ら2007『馬王堆出土文献訳注叢書五十二病方』)。艾が3ヶ所、いずれも灸治で用いられています(うち、痔に対して使用しているのが2ヶ所)。『名医別録』中品でももちろん、「艾葉味苦微温無毒主灸百病」と、灸法についての記載で認めますし、晋代『博物志』の記載(「艾草を積み、三年の後に焼くときは、津液下に流れて鉛錫を成す。すでに試みしに、験あり」白川静『字統』の訓読)や『荊楚歳時記』の記載(「炙に用いるに験キキメあり」)など、例には事欠かない状況です(なお、医療としての「灸」字自体は前掲『五十二病方』に7ヶ所記載がある他、『荘子』、『史記』倉公伝に初出を認めます:白川『字統』)。

現在の中国産はA. argyi Levl. et Van. (現代中国語艾蒿:和名チョウセンヨモギ)やヨモギA. princeps Pamp.(魁蒿:牧野富太郎はA. vulgaris L. var. indica Maximとしましたが、同種とされます)、A. lavandulaefolia DC.(野艾蒿)などの全草または葉を乾燥したものを正品とします(前掲難波1980)。けして日本産ヨモギだけではなく、むしろ別種が主体であるのですが、A. argyi Levl. et Van.も学史的にはA. vulgaris L.北蒿の変種とみなされていた時期があり、近縁種を区別せずに使っていたというのが実態でしょう。

2011年11月3日木曜日

「はしか」の民俗

 予防接種の普及が進んでいない我が国において、近年も折々流行し、しばしば新聞をにぎわせるのが「はしか」麻疹measlesです。

医学史のパイオニア、富士川游氏の『日本医学史綱要』(明治37年発行、1974年平凡社東洋文庫覆刻)によれば長徳4(998)年の赤斑瘡を初出とします(他「あかもかさ」『栄花物語』「赤疱瘡」『日本紀略』など)。「はしか」称呼は鎌倉時代『万安方』が初出。中国での「麻疹」初出は明代『古今医鑑』とのことで、両者が結び付けられたところに現代があります。ただし少なくとも久保田は「あかもかさ」と「はしか」をつなげて考証した史料を寡聞にして知りません。「もがさMogasa」は平安期倭名類聚抄から近世初頭日葡辞書まで一貫して掲載、また日葡辞書には「Tosoとうそう」「Togasaとうがさ」「Tosinとうしん」「Fosoほうそう」も掲載されているのに対し、日葡辞書には「はしかFaxica」があるもののあかもがさ・麻疹に準じた発音が確認できません。後世「疱瘡は器量定め、はしかは命定め」
と並び称されるはしかですが、実際の致命率は天然痘の方が高かったことが考えられ(氏家幹人2009『江戸の病』)、臨床的重要性が相対的に低いはしかは疾病の概念としての安定性も弱いように思われます。

ともあれ近世は「麻疹」「はしか」の時代であるわけですが、近代以前、史料上で痘瘡(もかさ:天然痘)との区別は厳密には困難であり、また庶民にとっても両者の民間治療は混然としたものになっています。痘瘡に対し患者の身の周りをすべて赤いものでおおうことで病魔を祓うという信仰は近世においては一般人から将軍家まで普遍的に行われていたことでした(注1)。その影響か、はしかにおいても赤いものを使用する民俗習慣が各地にあります(「疱瘡の治療と同様に、赤の衣類を着せ、赤の書物を読ませ、赤で神送りするような習俗もあった」:都丸十九一1971「はしか」『日本民俗事典』)。
その関係で興味深いのが、伊勢海老の殻の内服です。
「麻疹を鬼の襲来のように怖れる親たちが、炎で子のまわりを囲うみたいに赤い色を近寄せたのは前の章で述べたが、その赤色のお祓いをいま一つ体内にまで押し進めようとしたのだ。」
(斎藤たま2010『まよけの民俗誌』)
斎藤氏の著作によれば東は千葉の房総半島、西は佐賀・対馬まで類例があるようです。転じてひょうそうや破傷風にも使う例があるようで、ネットで検索すると多数類例が出てきます。

この淵源がどこにあるかですが、面白い記載をみつけました(注2)。
「(前略)民間薬のなかに入れるべきものとしては、たとえばエビ(Panulirus japonicus von Sievold)があり、はしかに効くとされている。はしかにエビが効くという発想は、吉田集而(一九七〇)の研究で明らかにされたように、朝鮮から広まってきたもので、朝鮮ではエビ(Cambaroides sinilis Koebel)
が昔からはしかに対して用いられていた。すなわち、エビをはしかの治療に使うのは朝鮮から伝来した民間療法なのである。」
大貫恵美子1985『日本人の疾病観』

大貫氏の挙げる吉田氏の著述は「イセエビとはしか」『季刊人類学』第1巻4号のようです。

なお、吉田論考中に挙げられる朝鮮のエビCambaroides sinilis Koebelは和名チョウセンザリガニのようです。同じCambaroidesでは中国の民俗例で胃石を薬用に使用しているものがあり(HP『虫類の薬用』)、日本の在来種ニホンザリガニCambaroides japonicus de Haanでも胃石を眼病や肺病など民間療法薬に使用するとの記載を認めます(Wikipedia「ザリガニ」)。また同じ中国の少数民族布依族は河蝦Macrobrachium nipponense de Haan(テナガエビ属)をなんとハシカに使う、とのこと(HP『虫類の薬用』:『布依族医薬』に収載)。

久保田のこれまでの記述だと赤色が痘瘡を祓う効果の延長上に海老が位置付けられるわけですが、周囲からの影響だとすれば、赤色・疱瘡に対する民俗全般がどうなのか、興味深いところです。前掲した都丸氏の論考では色調以外に表面のぶつぶつした触感も類感呪術の根拠として挙げています。また、ネット検索をしていてふと思いついたのですが、甲殻類を食べたときに蕁麻疹が出ることは一定度あり、その着想からやはり類感呪術として発疹疾患に用いられたということも考えられないでしょうか。

注1
後の13代将軍徳川家定は17歳の時痘瘡に罹患。
「御座の御装ひはさらにもいはず、御前近う仕うまつれる人々、なべて紅の衣を、肩衣の小袴の上にまどひ着て侍らひぬとぞ」(深沢秋男校注1978-1981『井関隆子日記』)
「小児いしゃ赤い紙そくでおくられる」(『柳多留』より:小野眞孝1997『江戸の町医者』)
なお服部敏良1975『王朝貴族の病状診断』(2006年再版)では平安時代における痘瘡・疱瘡の記載が多数ありますが、赤色を強く意識した習俗の記載は無いようです。富士川游1912『日本疾病史』(1969年復刻)では疱瘡神信仰は近世以前と以降で変化しているようで(成松佐恵子2000『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』)、起源は案外新しいのかもしれません。

注2
大蔵永常1847『山家薬方集』は民間人に対し漢方から援用した民間療法をかなり丁寧に記載した史料です(長沢元夫・小西正泰解題1982)。「疹」ふりがなで「はじか」に対しても漢方をベースに症状軽減を図った記載になっていますが、その中にエビ・ザリガニは登場しません。分布域がかなり広範なエビの使用ですが、一般に認められた治療であったか、となると微妙に思われます。