2011年11月16日水曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(10) 艾葉

平安初期に編纂された『新撰姓氏録』に欽明朝の事績として明堂図がもたらされた旨記載されているのが、記録上鍼灸が取り上げられた初見ということにになります(関晃1956『帰化人』2009年再版)。記紀に記載されているわけでもなく信憑性は評価困難ですが、灸治はその後比較的短期間で国内に広がったらしく、神亀3年(726年)山城国愛宕郡雲下里計帳や、天平12年(740年)越前国江沼郡山背郷計帳でも「灸」の記載を認めます(前者では45歳正丁の戸主の右手に「灸」の痕跡あり:新村拓1985『日本医療社会史の研究』同1983『古代医療官人制の研究』)。また宝亀年間(771-772)の東大寺写経所写経生壬生広主の治療でも「治焼」とあり、灸治が推定されています(丸山裕美子1998『日本古代の医療制度』)。

 灸治に用いたモグサ熟艾・温灸艾は葉裏の繊毛を調整したものですが、治療法の淵源からも当初は輸入、その後国産となったことがモデルとして想定されます。近世、大槻茂禎1817は『灸艾考』でその変化を延喜の頃からではないかと考証しましたが、上記のような灸治の普遍化からは、より早い時点で国内産を用いていたと考えるべきでしょう。延喜式巻第37典薬寮の条文中には「熟艾」が挙げられているにも関わらず諸国進年料雑薬では記載が無いのは、朝廷からの頒布に頼らない水準までヨモギ/モグサが各所で採取され、一定の階層までには使用されていたことを示すものと考えます(ちなみに「熟艾」の初出は757年養老令中の軍防令備戎具条、ただし発火用のホクチ火口として)。空海797『三教指帰』「瞳矇を鍼灸して此の直き荘に帰せしめよ。」、山槐記(中山忠親の日記)仁平21152)年96日条「実長朝臣ノ灸治暇ノ事ヲ申ス」など、平安期以降になると灸治の記載は事欠かないようになります。

 そのような状況で源基となる植物について、古く平安初期の輔仁『本草和名』や順『類聚和名抄』から、「艾葉」はヨモギと訓じられました。以後近世に至るまで、国内において一貫して「艾」は日本産の「ヨモギ」で説明され、中国のものとは別種とする視点は、全くありません(なお「もぐさ」の初出は1275年『名語記』「やいとうのもぐさ如何。熟艾とかけり」とされます)。ヨモギの産地について、基本的に近世まで不明ですが、10世紀の歌人藤原実方は『御拾遺和歌集』収載、後に百人一首51番となった著名な和歌で「いぶきのさしもぐさ」を燃ゆる思いとかけていて、当時から地名としての「いぶき」とモグサを結び付けるイメージがあったと思われます(注)。

1573年茨木二介『針聞書』には40の病態に対し39の生薬が内服用に用いられていますが、その中にはヨモギ属は含まれていません(長野仁・東昇2007『戦国時代のハラノムシ』)。以後も内服に用いるヨモギは灸治に比べると貧弱な状況が続きます。

 『日葡辞書』ではYomogui「灸をすえる(botoes de fogo)のに用いる草」、Qiu「ある灸のすえ方(botam de fogo)」QiujiQiuji suru灸治する」Yaito「ある乾かした草ですえる灸(botao de fogo)」などの用例が確認できます(現在でも愛媛では方言でヨモギを「ヤイトグサ」とします:都丸十九一1971)。安土桃山期の曲直瀬道三は『鍼灸集要』『指南鍼灸集』。古方派も後藤昆山など灸治を称揚し、近代にまでそのような状況は継続することとなります。

注  「いぶき」は下野国の山を意味するとする異説あり(Wikipedia『藤原実方』)。

0 件のコメント:

コメントを投稿