2012年8月31日金曜日

津波注意報

太平洋津波警報センター発:2012年8月31日21時47分フィリピン中部サマール島東沖でマグニチュード7.9の地震あり。日本列島の広い範囲に津波注意報が発令(NHK)。22時10分ごろ町中にサイレンがあり、内容はいま一つ聞き取れませんでしたが、テレビで確認できました。

相模湾への予想到達時刻は9月1日午前1時30分ごろ。また予想される津波の高さは50cmとのことでした。チリ地震のことがありますからね、気をつけましょう。海岸や川に様子を見に行く人は、けしていませんように、、、。

追記:参考までに、気象庁のHPを
http://www.jma.go.jp/jp/tsunami/

2012年6月20日水曜日

酒匂川水系水位のその後

停電もあったし、散々でしたね、、、。
国土交通省のテレメーターでみる限り、
山王川
東洋橋:21時1.62m→22時2.15m→23時1.85m→0時1.53m→1時1.37m
(氾濫危険水位2m 避難判断水位1.4m)
酒匂川
松田惣領:21時1.00m→22時1.30m→23時1.90m→24時1.95m→1時1.53m
(氾濫危険水位2m  避難判断水位1.7m)
富士道橋:21時0.72m→22時1.06m→23時1.76m→24時1.68m→1時1.13m
(氾濫危険水位2.2m 避難判断推移1.9m)

23時ごろから山間部を除いて降水量が減少したこともあってか、0時以降は
水位が低下に転じたようですね。
①氾濫注意水位から氾濫危険水位まで2時間以内で上昇しうること、
②むしろ小河川の方が急激な水位変化も注意すべきこと、
③水位変化は地点間でタイムラグが一定度あること、
など注意されます。

2012年6月19日火曜日

酒匂川の河川水位

23時時点で山王川東洋橋の水位はそれまでの2m超過から1.85mと低下傾向に転じつつあるようですが、酒匂川は富士道橋で1.06mから1.76mへと水位上昇あり、避難判断水位が1.90mです。

http://www.pref.kanagawa.jp/sys/suibou/web_general/suibou_joho/main.htm

追記 
小田原市の発表では23時30分時点で1.73mへ推移。降雨量の状況、周囲河川の動向からするとあとひと踏ん張り。0時の発表が大事でしょうが、、、。

酒匂川洪水注意報

22時30分現在神奈川県・横浜地方気象台の共同発表で、酒匂川の洪水注意報が出されました。

http://www.jma.go.jp/jp/flood/103-83268001-00-201206192230.html

松田惣領でのレベル2ですね。上流側での降雨量で変化していきますので、注意して経過を見ていく必要があります。ハザードマップで浸水域内に住んでいる方は、しばらく要注意です。

小田原市避難勧告のお報せ

21時57分小田原市から久野地区に住んでいる方について避難勧告がメールで出たようです。
最寄りの小学校に、強風に注意して避難してくださいとのことでした。

山王川に注意

山王川で氾濫に気をつける必要がありそうです。

神奈川県西部の各河川で水位情報はこちら:
http://www.pref.kanagawa.jp/sys/suibou/web_general/suibou_joho/main.htm
避難判断水位1.40mに対し21時時点で1.6mを超過。

気象庁発表の神奈川県土砂災害警戒情報はこちら:
http://www.jma.go.jp/jp/dosha/320_index.html
21時26分現在神奈川県で洪水予報が気象庁経由では出ていないようです。

今しばらく、慎重に経過を見る必要がありそうです。
山王川の洪水ハザードマップはこちら:
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f3747/p11323.html

2012年2月10日金曜日

中世の軍用道(1)

以下、HP『新歴史評定』2002年7月26日投稿分の再掲載です。

古代や織豊政権期に比べ中世は、道路の管理主体の面で脆弱な印象があります。室町期(足利義満以降)の場合、過所発給権(関所の改廃権)は室町幕府に主体があり(小林保夫「南北朝・室町期の過所改廃について」)、その実行主体は守護大名が担っていたと考えられる(福島正義1992「中世の交通」『日本交通史』吉川弘文館)わけですが、「道路の新設・管理を政治的公権力が行うのがあたりまえというのは、江戸時代以降の感覚であって、戦国時代より前の中世においては決してそうではなかった。」(久留島典子2001『一揆と戦国大名』講談社)

例えば鎌倉時代の東海道管理に極楽寺が深くかかわっていたことが指摘されています(相田二郎による:馬淵和雄1998『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社)。室町時代でも基本的には同様で、「道全体の開設と管理も、勧進僧が中心となっていた事例がみられる。」(久留島前掲書)
また戦国期独特の特性として、「戦国大名の交通政策は分国本位の閉鎖的なものであり、しばしば交通遮断を行って領国防衛を図ってきた」(福島前掲書)という事情もあるでしょう。

しかし、戦国期において根本的に道路整備が進んでいなかったかといえば、そういうことでもないでしょう。近江と伊勢を結ぶ八風街道は、年代が下がるほど大名権力(この場合、六角氏や長野氏)が管理するようになるです(『四日市市史 通史編』:久留島前掲書)。貨幣経済が一定度進展した段階において、領国内の交通を渋滞せしめる方向の政策は、個々の大名にとってむしろ損失の方が大きかったのではないでしょうか。仮に大名権力が道路整備に関与するならば(そして六角領国はそれがなされていたと思われるわけですが)、少なくとも領国内の街道は一定度整備されていたと考えられないでしょうか。武田・上杉両氏で知られる道路政策はその一例であるように思われるのですが、、、。あともうひとつ、畿内の場合10世紀代に安定する後期駅路の年代的下限がどうなっているかも興味深い問題でしょう(かなり遅くまで維持されている可能性もあるのではないでしょうか)。

戦国期の実際の道幅については、小野正敏氏が『戦国城下町の考古学』(1997年講談社)の中で一乗谷遺跡を取り上げてコメントしています。

「これまでに発掘された五〇以上の道路は、四ランクに分けられる。①幅員7.8-8メートル、、、④2メートル以下の道路である。」

街中の道路が一定度広かったことがうかがわれますが、もちろん街の外にもあてはまるわけではないでしょう。『日本の古代道路を探す』(中村太一2000平凡社)などを読むと考古学方面で中世の道路につき、新知見も交え研究討議が進んでいるようで、どなたかご教示いただければ幸いです。

2012年2月9日木曜日

インフルエンザ流行中

インフルエンザが流行ってますね。寝込んじゃってる人が多くて大変。久保田在住の小田原近辺は、、、今週あたりがピークのような感じでしょうか。小児科をあつかっているとかあつかっていないとか、言ってられない状況ですね。

 A香港が主体でBが混ざっている状況のようですが、Bは小田原ではわずかです。消化管症状は弱いはずですが、来院患者でしばしばいるところをみると、1月の感染性胃腸炎が完全には衰微していないんでしょうか。

過去の研究からは小児のワクチン接種が広範であればあるだけ、risk factorのある症例などの死亡数が減少する傾向が指摘されているようです。学校の保険医方々、大変かもしれませんが学内の状況把握など、よろしくお願いします。

2012年2月7日火曜日

武田の騎馬軍団はありえない?(2)

江戸時代とも比較してみましょう。まず1600年伊達政宗が山形に派遣した援兵の構成は、3000人中騎士420名(14%)というものでした(『関が原の役』旧参謀本部;徳間文庫)。次に、元禄年間作成と思われる上野国前橋藩酒井家の陣立図中、本田民部左衛門家中の構成では、381人中騎馬31人で(「軍事編成と動員兵力」『戦略戦術兵器事典日本戦国編』)、8%と騎馬が少なくなっています。落馬して笑われる武士の登場を予感させる現象ですね。

最後に、西欧の同時代と比較してみましょう。

A、1471年ブルゴーニュ公シャルル豪胆公
 7250人中重騎兵1250人(17%)
B、1494年シャルル8世のイタリア遠征
 18000人中騎兵12000人(67%)
C、1525年フランソワ1世パヴィア遠征
 32000人中6000人(19%)
D、1631年ブライテンフェルトの戦い
 皇帝軍:31400人中騎兵10000人(32%)
 スウェーデン・プロテスタント連合軍:41000人中13000人(32%)
E、1640年フランスの将校モンクの教科書より
「平地で戦う場合には、兵力の割合は歩兵2に対して騎兵1がふさわしい。」
(上記5件『長篠合戦の世界史』J.パーカー1984年;邦訳同文館)

中国、オスマントルコの同時代とも比較した印象ですが、少なくとも日本の戦国時代(と、いうよりも日本史全般でしょうか)は世界的にみて騎兵の重要性がそれほど高くはない印象があります。武田騎馬隊というとどうしても世界のクロサワ『影武者』の印象が強いわけですが、少なくとも数の上ではけして他にぬきんでているわけではない事はつかめるのではないでしょうか?

、、、ノイエスが特にある訳ではなく、備忘録的な記載で恐縮です。10年たった2012年現在では桐野作人氏の論考など発表されており、着眼点もかなり掘り下げたものが要求される状況でしょう。

2012年1月25日水曜日

武田の騎馬軍団はありえない?

以下、『新歴史評定』というホームページに2002年6月1日寄稿いたしました記事を再掲載致します。
(軍事史が主でしたが『新歴史評定』には当時様々な疑問・意見が寄せられ、久保田なりに他の方々の意見を励みに勉学に勤しんだことが昨日のように思われます。関係者方々への感謝の意をこめて、また以前論じた内容の再展開が可能になることを念じ、謹んで再掲載させていただければと存じます)


永禄から天正年間の武田軍の装備については手元の『武田軍記』(小林計一郎1965年、人物往来社:朝日文庫より再版)に一覧表を見つけました。
小林氏が作成したのは、永禄5年大井高政宛軍役状より天正6年原伝兵衛宛軍役状までの計11通で、兵員数・乗馬数・槍・弓・鉄砲などの携帯率などが掲載されています。

「こころみにその百分比をとってみると、軍勢百人に対して、騎士12人、(以下略)」(小林前掲1965)

ちなみに同書では、「天正十三年上杉氏軍役帳」から上杉軍の軍勢百人中の騎士数を10人と報告し、「これでみると、上杉軍と武田軍は、だいたい同じような装備を持つ部隊であったらしい」と結んでいます。なおこの「天正十三年」は天正3年の誤記と思われますが、故杉山博氏の『戦国大名』(1974年、中央公論社)にはその軍役帳が一覧表になっています(出典は上杉文書のようですね)。 それでみると兵数1186人に対し馬上112人と、確かに約1割が馬上になっています。

 後北条について、前掲杉山氏に、「元亀3年(1572)正月、宮城氏が着到わりあてをうけたときは、36人の軍兵を要求されている。その内訳は、宮城泰業自身、馬上侍7人、(以下略)」ということが載っています。他にも下記比率の史料があり、どうも兵力中の騎馬率が他よりも高かったような印象があります。

1、弘治2年(1556)伊波大学助らの軍役:56人中馬上12

2、天正10年(1582)富岡秀朝:30人中馬上6

2012年1月4日水曜日

しばらく滞ります

2012年に入り、私事で恐縮ですが職業環境の変化があり、半年ほどはこれまでのような頻度ではブログが更新されなくなります。記事内容もしばらくは他愛の無いものが中心となります、改めて

2012年1月3日火曜日

敗北は勝利の始まり

今年も箱根駅伝が終わりましたよ、、、、
東海大学は今年は残念でしたね。途中から出る選手出る選手顔つきが
「俺がやらなきゃ」というのが痛いほど伝わりました。空回りしちゃったのかな、、、。

ただ、今年の東洋を見ていても、「敗北は勝利の始まり」ということもあると、意を強く
しています。3区刀祢君のように成果をあげた人もいたし、顔を落としていてばかりでは
いけないのでしょうね。大事なことは犯人探しではなく、解決につながる形で敗北の原因を
冷静に分析することでしょう。選手自身の1分1秒を削る努力は勿論重要として、
大事なのは別なところかもしれませんね。

2012年1月2日月曜日

Buon anno!

年が明けました。旧年中は様々な事がありましたが、今年が恙なくすぎますように、、、。

題名はイタリア語で新年の挨拶です。直訳すると「良い年を!」でしょうか。
スペイン語でどうか、、、和西辞典で検索すると、
¡Feliz Año Nuevo! 新年に幸運を!
が載っていますが(『デイリーコンサイス西和・和西辞典』2010年)、イタリア語でも同じ表現が
Felice anno nuovo!が掲載されていました(『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』2001年)。

クリスマスでもイタリアがBuon Natale!、スペインが¡Feliz Navidad!もしくは¡Felices Navidades!
となり、新年とおなじような傾向があります。英語のMerry Christmas!は「愉快な新年を! 」と
なるので、どちらかというとイタリア的なのかな、、、。だけど新年はA Happy New Year!ですね、
面白いな。英語はやっぱり混ざっているということなんですかね。

中国語の 新年好! は中性的ということになるのかな。ちなみに韓国語では、
「新年に福をたくさん受けてください」という意味で、「새해 복  많이  받으세요」となります。
日韓は他よりかなり長い表現になっているのが印象的ですね。