2012年2月10日金曜日

中世の軍用道(1)

以下、HP『新歴史評定』2002年7月26日投稿分の再掲載です。

古代や織豊政権期に比べ中世は、道路の管理主体の面で脆弱な印象があります。室町期(足利義満以降)の場合、過所発給権(関所の改廃権)は室町幕府に主体があり(小林保夫「南北朝・室町期の過所改廃について」)、その実行主体は守護大名が担っていたと考えられる(福島正義1992「中世の交通」『日本交通史』吉川弘文館)わけですが、「道路の新設・管理を政治的公権力が行うのがあたりまえというのは、江戸時代以降の感覚であって、戦国時代より前の中世においては決してそうではなかった。」(久留島典子2001『一揆と戦国大名』講談社)

例えば鎌倉時代の東海道管理に極楽寺が深くかかわっていたことが指摘されています(相田二郎による:馬淵和雄1998『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社)。室町時代でも基本的には同様で、「道全体の開設と管理も、勧進僧が中心となっていた事例がみられる。」(久留島前掲書)
また戦国期独特の特性として、「戦国大名の交通政策は分国本位の閉鎖的なものであり、しばしば交通遮断を行って領国防衛を図ってきた」(福島前掲書)という事情もあるでしょう。

しかし、戦国期において根本的に道路整備が進んでいなかったかといえば、そういうことでもないでしょう。近江と伊勢を結ぶ八風街道は、年代が下がるほど大名権力(この場合、六角氏や長野氏)が管理するようになるです(『四日市市史 通史編』:久留島前掲書)。貨幣経済が一定度進展した段階において、領国内の交通を渋滞せしめる方向の政策は、個々の大名にとってむしろ損失の方が大きかったのではないでしょうか。仮に大名権力が道路整備に関与するならば(そして六角領国はそれがなされていたと思われるわけですが)、少なくとも領国内の街道は一定度整備されていたと考えられないでしょうか。武田・上杉両氏で知られる道路政策はその一例であるように思われるのですが、、、。あともうひとつ、畿内の場合10世紀代に安定する後期駅路の年代的下限がどうなっているかも興味深い問題でしょう(かなり遅くまで維持されている可能性もあるのではないでしょうか)。

戦国期の実際の道幅については、小野正敏氏が『戦国城下町の考古学』(1997年講談社)の中で一乗谷遺跡を取り上げてコメントしています。

「これまでに発掘された五〇以上の道路は、四ランクに分けられる。①幅員7.8-8メートル、、、④2メートル以下の道路である。」

街中の道路が一定度広かったことがうかがわれますが、もちろん街の外にもあてはまるわけではないでしょう。『日本の古代道路を探す』(中村太一2000平凡社)などを読むと考古学方面で中世の道路につき、新知見も交え研究討議が進んでいるようで、どなたかご教示いただければ幸いです。

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