2011年12月26日月曜日

エビデンスを作成する主体と利用する主体の分離

帰納的推論からより有益な結論を導き出すためには、根拠となるエビデンスを利用するにあたって、その作成者と利用者が異なっていることが、本来は望ましいでしょう。

上の文章は、ガイドラインの作成にあたって利益相反を意識するようになりつつある昨今の臨床医学を考えると、更にその先の理想論のように思われます。ある疾病の治療にあたってA製薬の薬が本当に勧められるか評価したいときに、根拠となるデータ、エビデンスの作成にA製薬自身が強く関わっていると聞いたら、第3者であれば眉唾物にしか話を聞かないでしょう。しかし、一昔前まではそのような研究を利用せざるを得なかったのが実情ですし、現状でも一定の影響は抜きがたくあるといわざるをえないように思われます。優れた研究者は優れた臨床家でもあることが、少なくとも「建前」としてはれっきとして存在する医学において、臨床家自身の研究は勿論ガイドラインの作成者自身もその薬を治療に使う以上、かってはstudyの立案・計画、場合によっては評価まで製薬会社の影響があったことは否定できないでしょう。かって一定の根拠をもって公的に認可され、長いこと販売されてきた薬剤が近年になり、「効果が否定された」という判断のもと使用されなくなった、という例は、残念ながら稀な例とはいえません。

この作成者と利用者の分離は、外の学問体系から考えるともう少し明瞭になるように思われます。例えば、歴史学においては学説の根拠となる史料の作成者は現代史を除き、学説の提唱者と時代的に分離されていて、特殊な状況以外では利益相反を議論される余地はありません。また学説の提唱が特定の利益を誘導するかどうかも、一部を除いて議論する必要はあまり無いように思われます(注1)。同じ現代を扱うにしても、司法は警察・検察と裁判所を分離する努力を行っていますが、医学ではそこまで徹底した分離は意識されていないのではないでしょうか。

ささいな問題では全くないことは、冤罪事件の社会的重大性や、歴史における注1のような例外が複雑な様相を呈することが多いことを考えればご理解いただけると思います。自分の理屈の中にいると簡単にみえる結論が、外からは実はそうではない(注2)。治療方針のエビデンスに基づいたガイドライン化を今後進める場合、結論の限界にどの程度自覚的になって治療を進められるかは、臨床家各自にとっても喫緊の課題だと思います。、、、というのも、「学会」でつくられた「ガイドライン」に基づいた治療、という言説には、本来的にM.フーコーがいうところの権力がつきまといます。EBM導入当初の言説として、EBMは治療の可能性を制限するものとはならない、という論調がかってありましたが(EBMジャーナル創刊当初の論考だったと思います)、現実にはガイドラインは「正解へ導く海図」としてだけで無く、患者の「無知を罰する武器」としての側面を期待する利用者が増えてきているような気がしてなりません。

注1 例外として考えないといけない一例が、結論の要素中に、国籍や性別、宗教など、研究者本人の属性に関わることが含まれる場合でしょう。

注2 明治前半において伝統医学よりも西洋医学が優れているとの言説は多数なされましたが、当時の新聞広告にみる薬方で現在にまで至るものがどれほどか、といえばきわめてわずかでしょう。それをもって不断の学問の進展を言い募るとするならば、それはあまりにも楽観的だと言いたくなるのは私だけでしょうか。

2011年12月17日土曜日

お観音さんのだるま市(2)

 、、、ここでちょっと寄り道しましょう。ユズリハは学名Daphniphyllum macropodum Miq.トウダイグサ科ユズリハ属の常緑高木で、西日本から半島南部・中国の山地に分布。枝先に集まって互生する、大柄な長楕円形の葉が特徴的です(牧野富太郎『原色牧野植物大図鑑』)。花は5-6月、実は晩秋ですが、新葉と旧葉の入れ替わる様が特徴的であるために縁起物とされ、「歳首ノ賀具トス」(『大和本草』)「都鄙正月鑑餈(カガミモチ)及門戸之飾用」(『和漢三才図絵』)のように、正月に葉を飾り物として使いました。小田原においても前掲西海氏の論考で下記のような記載を認めます。
「(正月の)オカザリの中心は歳神、大神宮、恵比須でこれらには、うら白、ゆずり葉、橙などをつるした。」
正月は、まさにゆずり葉に乗ってダルマ市にやってくるのです。

やはり西海氏の聞き取り調査(西海前掲1988)では、明治40年前後まで酒匂川の西側から飯泉観音にお参りする際、橋銭1銭を払ったとのことです。渡し人足が生計を立てている下流側の酒匂の渡しと異なり、近世の飯泉では「渡船場あり、舟二艘を置て往来に便す、季秋より初夏に至る迄は、橋を設く」状況で(『風土記稿』)、季節毎に撤去される臨時の橋であったと考えられるわけですが、設置費用を橋銭のかたちで賄っていたことの名残だと思われます。

往年のダルマ市の様子は、俳人でもあり随筆家でもある立木先生の名文の右に出るものはないでしょう。

 「ちょうどこのころになると、足柄の平野に名物の空っ風がピューピュー吹きはじめた。御縁日にはダルマ市が立った。黒壗の小川を渡ったあたりから、道の両側にずらりと露店が並び、仁王門の左右にはきまって、正月用の神棚やエビス大黒をあきなう店が客を呼んでいた。来年の暦売り、独楽、羽子板、カルタ、双六、それから豪華な繭玉屋、この御縁日は大歳の市もかねていたのである。」

「戦後しばらくの間、飯泉の御縁日も、このダルマ市もさびれていた。しかし観音堂も解体修理され、仁王門も四脚門も、さらに大岡実氏の設計した大日堂もすべて新装がなった。境内は広々と整い露天商の人々も年々増加してきて、近年の賑わいは戦前の姿を取り戻しつつある。」(立木前掲『小田原史跡めぐり』)

 今後人口の減少が加速化するこの街小田原にあって、ダルマ市もまた変化していくことでしょう。来年が良い年でありますように、来年がどうかどうか、良い年でありますように。


追記:
平塚市博物館のHP「発見!ひらつかの民俗 第5回」は飯泉観音だるま市をとりあげていますが(2009年の取材に基づく)、売られているダルマの大半は平塚で作られている相州ダルマとのこと。どこの地方でも地元のダルマを買っていく傾向があるとのことで、飯泉では30軒ほどあるダルマ商のうち、相州ダルマ以外をあつかっているのは2軒のみとのことでした。


1
現代会津の玩具である「起き上がり小法師」は形態も、また正月に販売されることでもダルマとの類似度が高いものです(Wikipedia「起き上がり小法師」201112月参照)。ただし、下記のような「二人大名」中のセリフにおける起き上がり小法師の扱いなどから、本当に現代のようなダルマの類似品だったかは、議論の余地があるかもしれません。

「京に 京に はやる起き上がり小法師
殿だに見れば 殿だに見れば つい転ぶ つい転ぶ」
             (小学館2000年『日本古典文学全集 狂言集』)

彼らはまず第一に、転びやすい存在なのです。

2
毎月18日は一般に観音の縁日とされます。6月・12月が市日となるのは、むしろそれぞれの一日(61/ムケの朔日 121/カワビタリ朔日)が正月とならび物忌としての水神祭との関わりでとらえられないか、と酒匂川の渡し場にほど近く、かって補陀洛山を名乗っていたとされる飯泉観音の立地から推測します。

3
全国のダルマ市からの類推ですが、着想の初出は別に先行があるようです。
参照:平塚市博物館HP「発見!平塚の民俗」第6回麻生不動のだるま市

お観音さんのだるま市(1)

今日明日は飯泉観音のダルマ市です。近辺では冬の風物詩として長く親しまれ、小田原から他所に出た人にとっても懐かしい思い出ではないでしょうか。 

達磨(だるま 菩提達磨ボディダルマ)は禅宗の初祖として知られる、中国南北朝時代の僧侶のこと。面壁9年の座禅で四肢を失ったとの伝説があり、室町時代に伝来した酒席の玩具「不倒翁」が禅宗の広がりとともに江戸時代にだるまの座禅像に置き換えられた、というのが定説です(斎藤良輔1969「だるま」『大日本百科事典』小学館)。「不倒翁」の詳細が不明ですが、そこから室町時代には「起き上がり小法師」が派生、狂言「二人大名」でも取り上げられる一般的な存在になります(注1)。『日葡辞書』で「Coboxi小法師」はBonzinho、即ち小さいBonzo(坊主)、またはMenino rapado剃髪している子供、を意味します(岩波書店1960年『日葡辞書』)。外見的にも「不倒翁」から「だるま」までにはいくつかのプロセスを経ていることを推測すべきでしょう。山田徳兵衛1975「だるま」(旺文社『学芸百科事典』)ではだるま意匠の採用が江戸中期、幕末には類似玩具はダルマでほぼしめられるようになるとのことです(1830年成立の『嬉遊笑覧』では「達磨を翫物とするも近き事にハ非ず」とあり、文政年間には由来が既に不明瞭になっていたようです:都丸十九一1971「だるま」『日本民俗事典』)。

立木望隆1976『小田原史跡めぐり』では飯泉観音ダルマ市の由来を「四百年も昔の永禄のころからすでに始まっていたという。」としています(残念ながら出典が記載されていません)。戦国時代まっただ中である永禄年間で、市で売買されるほどにダルマが起き上がり小法師として定着していたとは、これまで述べてきたことからは考えがたいものがあります。また『新編相模国風土記稿』(1841年:『大日本地誌体系』本参照)足柄下郡巻之十五成田庄飯泉村観音堂の項でも、「毎年正月六月十二月の十八日(注2)には境内に市ありて、時用の物を交易す」と記載され、歳の市が他の市より特筆されているわけでも、またダルマが主体の記載になっているわけでもありません。やはり『風土記稿』で、永禄51562)年12月に飯泉山へ北条氏からだされた法度が虎朱印状として残っており、上記伝承は飯泉観音自体の重要な画期とダルマ市が混同しての結果とも思われます。いずれにせよ民間に流布した観音信仰・不動信仰は教義のためかダルマ市の母体となっていることが多いようで(注3)、平安朝弘仁仏とされる十一面観音を据える観音堂の行事として、必然的に現代にいたったものでしょう(ちなみに同寺が千代にあったころの山号とされる「補陀洛」は南海にある観音の住まう処に由来します)。

『神奈川県の歴史散歩下』(山川出版社1987年)の「飯泉観音」より:
「毎年暮の121718日の歳の市は関東初のだるま市として大変なにぎわいをみせる。この日以降、正月の準備を始めるという。」

 飯泉で始まっただるま市はその後関東各地で開かれ、翌年33日武蔵国深大寺でトリを迎える、というのが一般の説明。「飯泉の歳の市が終ると市内ではいよいよ正月準備に追い立てられるような気がするとよくいわれる」(西海賢ニ1988「小田原民俗小誌(1)」『おだわら-歴史と文化-2号)。明治生まれの古老が子供の頃の童歌で、下記がよく紹介されます。

お正月がござった

どこまでござった

飯泉までござった

何に乗ってござった

ゆずり葉にのって

ゆずりゆずりござった

            (立木前掲『小田原史跡めぐり』より)

2011年12月11日日曜日

学会の内と外

皆既月食、すごいですね。6歳の息子を起こそうとしたけど、ぐっすりでだめでした。
また今度見ようね。

さて。12月10日朝日、井上正男氏「地震学の敗北 学会や報道の体質改善を」について、思うところを。

「できるはずだと思っていたのに、なぜ東日本大震災のような巨大地震を予測できなかったのか。」
氏は10月、日本地震学会に取材した後、上記のような問題を設定し考察を進めます。氏が整理する問題点は2点。
(1)「学会の体質」
地球物理学や地質学など「門外漢」のいうことに耳を貸さず、内部で相互批判が希薄で「仲良しクラブ」になっている、と。
→「学会はさまざまな学問分野の視点や批判などに門を開き、外国人、若手もとりこんで、研究と議論を活性化させなければならない。」
(2)「科学ジャーナリズムの体質」
批判的に研究成果を吟味することなく、そのまま報道したのがよくない。
→「一定の科学知識と自立的な批判精神を持ちうる人材を育て、地震学者や学会といい緊張関係をもちながら情報を発信し、こんごの防災につなげていくべきだ。」

(1)について、わかりやすく内容を伝えることを意図してか内容がやや煽動的に思われ、結論自体は妥当だと思うのですが、学会内部に届く意見になっているかというと疑問なように思います。外野から推測するに、学会内で批判的応酬をしていない、という内部の自覚はそれほどないのではないでしょうか、どうですか?研究対象をテーマ・方法論ごとに細分化し専門家群を措定する一連の作業が「学会」というギルドの営みです。井上氏のあげられる問題点はむしろ、学会が対象とする体系のもつ暗黙の前提についてのもので、むしろこの点を学会内部で批判的に吟味するのは最初から困難で、当初から外部との接触が必要な部分であると思います。

 他の学問をひきあいに出します。癌患者に対する臨床的アプローチは臨床腫瘍学会が主に扱うところで、外部からみてもそのように認識されますし、また専門医の認定も行っています。新聞記事でも腫瘍専門医が何人いるかなどの記事は日常見かけるところでしょう。患者の立場からみると彼らには治療を行うべきか否かの判断も基準の提供者として、当然期待したいところです。ただし、現在の腫瘍学のロジックからいえば治療を行うかいなかの判断基準は「それによって寿命がのびるか、のびないか」にまとめられてしまいます(臨床科学としての客観化が進んでいる分野ほど、その傾向があります)。患者や家族が判断を行う際は、当然異なるべきですが高次機能病院で説明を受けるほど、当然(そう、至極当然なのです、学問というロジックの内側からみれば。そこに批判的見地の成り立つ余地はわずかです)寿命がのびるかのびないかだけで判断基準を説明され、最終決定が委ねられます。医師個人のヒューマニティなどは別次元で発揮され、この点はある意味きわめて無機的です。

 問題は医師の側がそのことにどの程度自覚的で、かつ患者・家族に提示できるかですが、、、、それこそ自戒をこめつつ、私自身できていないこともけっこうあったように思います。近藤誠氏による一連の化学療法批判の本質は、上記の中にこそあると思います(もっとも、ややこしいのは批判するときの方法論が、グラフやら生存率やら、腫瘍学の土俵にあたかもあがるような形をとるところです)が、それに対し週刊誌に掲載された腫瘍内科医の論考で、それこそ自信たっぷりに近藤氏の方法論で至っていないところを指摘し、だから信用できないのだ、というものがありました。、、、そうではないでしょう。治療方針の決定にNBM(患者・家族のナラティブの重視)が不可欠だとすれば、そこにはRCTとか症例数とか有意差とかでは割り切れない世界があるのは当然です。そのことへの十分な指摘なしには、議論は交差することのない、弁証法的営為のないものになってしまうのではないでしょうか。また、治療を受けたくない、といっている患者に対しきわめて冷たい医師はどこにいっても本っ当に多いのですが(共感できないからであって、相当根の深い問題です)、解決の方策は
本質的には腫瘍学のロジックの外にある話でしょう。

 かってオルテガ・ガセットは『大衆の反逆』で、専門家が専門領域以外では全くの大衆と変わりないことを告発しました。それは実は専門領域のすぐ近くでも(いや、だからこそ)発生するのです。専門家という皮を被ったバーバリアンにならないためには、自分のロジック以外をどう導入するかを考えることが、不可欠です。

2011年12月7日水曜日

エビデンス覚書(2) 広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定する立場

両者の懸隔は狭いようで、広い。、、、ここでいう立場とは、絶対的な立ち位置と、向かおうとするベクトルの二つでそれぞれ考える必要があります

 時代の潮流(その時の、流行り)毎、あるいは学問毎にどちらかが優勢なことはよくあることと思いますが、もうひとつエビデンスに供せるテクストの量が立場を大きく規定するということはありそうです。例えば臨床研究を行う立場(=現代の症例群からよりより診断法・治療法を決定したい、エビデンスを作りたい立場)からは、これから症例を集めるにせよsample sizeが相対的に大きく、それ故により質の良い対象を集めるためにinclusion criteria選択基準、exclusion criteria除外基準の厳密化が顕著です。それに対し、テクストが既に作られていて質・量に限りがある歴史学の場合、同じようにはいきません。

 また法曹畑でもForensic Medicine法医学などは、医学部に付属することに誰も疑問を持ちませんが、このようなテクスト論からいえば臨床医学的な立場と歴史学との中間的なものであることがご理解いただけるのではないでしょうか。

 そうはいっても、行政文書が比較的多数残っている地域・年代の研究者にとり、例えば政治史を試みるものはtext critiqueの方法論が命綱になりますし、その発達こそが近代史学の誕生を導いたその後の反動ではtext critiqueの結果見過ごされた史料の中でも、他のテーマであれば十分歴史学の対象となりうることを指摘した社会史・心性史の流れがあったわけです(他学からみれば両者の違いは立ち位置の違いはわずかで、むしろベクトルの違いなんだな、ということがよく感じられますが)。ミシュレやティエリ、クーランジュに対し史料批判が不十分であるとするセニョボス、ラングロワらの批判が「正統」であることは言を待ちません(注1)。ただしその後の学史的展開を俯瞰するかぎり、歴史学の学問としての拠り所は、エビデンスを狭く取ろうとすることそのものにあるというよりは、エビデンス措定に対する方向性の違い・可能性を常に再識し、研究者の立ち位置を明らかにすることにあったといえないでしょうか。

また、エビデンスを「作る」側と「使う/消費する」側でもベクトルは異なりえます。この場合方向は必ずしも一様な関係ではなく、例えば臨床医学で厳密なエビデンスを求めて対象を狭くとろうとしすぎると、実用の場面ではエビデンスからはみ出た症例が多くなりすぎるということが多々あります。現在克服されつつありますが、非小細胞肺癌に対する治療のエビデンスは体力的に余裕のある70-75歳未満でまず集積が進み、国内でむしろ多数派である高齢者で治療の根拠が弱い、ということがありました(最もこの点は、どのような症例で積極的な治療が勧められないか、ということに対するstudyが組まれない限り不分明な部分が残るように思われます)。逆に対象を広くとったために、よくわからないぼけた結果になってしまうこともあります。抗癌剤のゲフィチニブはかって非小細胞肺癌症例全体を対象としたstudyで有意な治療効果をみいだせませんでしたが、2010年以降EGFR変異の有無・種類で対象をしぼるとかなり異なる結果になることがはっきりしつつあります。

注1 中野知律1999「『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書」『一橋論叢』121(3)
「伝説に起源を持つ主張は、いかなるものであれ、拒否することがルールである」
(セニョボス・ラングロワ1898『歴史学研究入門』より、中野訳)
他フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』(原著1864年:1995年邦訳)参照

2011年12月3日土曜日

関東大震災時小田原近辺での津波災害について (2)

うっかり書き落としましたが、おそらくはかなりのプレッシャーがあったであろう中、津波避難場所をまがりなりにも折衝し、まとめ上げた行政にはまず、市民として率直に感謝いたします。
(やらせじゃないですよ、断っときますが)

酒匂川西岸など、空白域は依然あるように思います。2階建てであってもRC造で標高が比較的高ければ検討するなど、現場に応じた柔軟な対応で粘り強い折衝を続けていただければと存じます。

2011年12月2日金曜日

関東大震災時小田原近辺での津波災害について

市から配布されたばかりの『広報おだわら』2011年12月1日号では、切迫性が高いとされる神奈川県西部地震において小田原市内の最大浸水深を3.3mと評価。海抜10m以下を含む地域について津波対策を検討しているとし、市内の津波避難ビル一覧と地図を掲載しています(防災対策課・地域政策課「津波から逃げる!!」:注1)。津波避難場所の選定にあたり困難があったことはこれまで各新聞でもとりあげられたところですが(注2)、実際『小田原市史別編自然』2001年を繙くと、関東大地震の際、相模湾他で津波があったとの記載があります。実態はどうだったのでしょうか。

出版されたばかりの朝日新聞出版『完全復刻アサヒグラフ関東大震災・昭和三陸大津波』2011年は過去の罹災直後の文章・写真が多数掲載され、各地域での災害対策を行政だけではなく皆で考えていくという視点にとって、極めて示唆に富んだ刊行と思われます。授業での課題研究など最適ではないでしょうか。ここでは、津波についての記載を抜き出しましょう。

「伊豆半島熱海 、、、同地方は二丈余(6m強:久保田注)の大海嘯オオツナミ二度も襲来し惨害甚だしきものであった。海嘯のためさらはれたもの百五十余戸、、、」
「伊東 伊東町は海嘯の被害が最も甚だしく海岸より約五町(約5ha?約550m?)の区域は海嘯のため浸水し住家五十余戸は影も形もとどめず。八十余トンの帆船は六丁余(約660m)を陸地に乗り上げて、、、」(以上65頁)

波高について、『理科年表平成23年』に熱海12m、相浜(千葉県館山)9mとの記載がありますが、駆け上がったところではそこまで上がったということでしょうか(注3)。地理的範囲については、先のアサヒグラフ3頁に津波被害の概況が地図として表現されていて、真鶴以南から伊東よりやや南方において被害が大きかったようです。よくみると相模湾対側の鎌倉近辺にも津波の表現がありますが、ネットでも『知られざる鎌倉探索』で波高7-8mと記載される津波の被害が紹介されています(浪川幹夫氏2004年)。

小田原近辺は津波の表示が目立ってはいません。68頁の記事でも「地震、火災、海嘯の三方攻撃に会う」との記載がありますが、津波事態の記載はほとんどありません。中野敬次郎1968『小田原近代百年史』でも、元禄地震の海嘯についてこそコメントしているものの、関東大震災は建造物倒壊や火災・山津波などの記載が主で津波の記載を認めないようです。
他の被害が大きすぎて津波情報がマスクされてしまっているということも、皆無ではないでしょう。「全く無くなった小田原 一望荒涼として死傷一万一千、、、その惨状は言語に絶している、、、全町の三分の二は焦土と化した。」明治時代の高潮被害は中野氏が『百年史』で特記するところであり、リスクを考える必要は確かにありそうなのですが、、、。寡聞なだけかもしれませんが、堆積状況から過去の津波を復元する調査が市内でも活発に報告されることを、切に望む次第です。

関東大震災以前の地震については、前掲『小田原市史別編自然』に寛永地震(熱海・宇佐美)、元禄地震(相模湾他)で津波ありの記載があります。ディアナ号の損壊で著名な安政地震でも被害があり、これらについてネットでは、羽鳥徳太郎2006「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東、安政東海津波とその他の津波の遡上状況」が検索可能です(注4)。元禄地震では上総湊-館山間で5-10m、三浦市間口で6-8m。安政東海地震で浦賀3m、鴨川3-4mとのこと。また、書籍では目を通せていませんが渡辺偉夫1998『日本被害津波総覧第2版』が基本文献のようですね。

注1
タウンニュース小田原版2011年11月26日号「避難ビルに8000人受け入れ」
標高、避難場所など、小田原市地理情報システムNAVI-Oナビ・オダワラでネット検索ができるようになっています。
http://www2.wagamachi-guide.com/navi-odawara/top/select.asp?dtp=17
注2 
神奈川新聞カナロコ2011年10月15日配信「小田原市の津波避難ビル指定は半年で14棟にとどまる、自前の整備も必要」
注3 
2012年版の理科年表は大震災も踏まえ、自然災害に多くのページを割いているようです。
注4
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P037-045.pdf

2011年11月30日水曜日

エビデンス、という不安

今日のNHKクローズアップ現代は裁判の再審開始を題材としてエビデンスの開示が話題になっていました。Wikipediaで「エビデンス」を検索すると以下のような説明がなされており、なるほどな、と思わされます。

「エビデンスは、証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語 "evidence" に由来する、外来の日本語。一般用語として使われることは少なく、多くは、以下に示す分野における学術用語や業界用語としてそれぞれに異なる意味合いで使われている。」(2011年11月30日検索)

決して国内だけの趨勢ではなく、背景として米国でも同一領域の同じ対象に対してはやはり「evidence」と呼んでいることに注意が必要です(あくまで向こうが本家であって、こちらでこなれていない部分が日本流になっている、ということではないでしょうか)が、確かに学問間でtranslationalにはエビデンスという用語の定義の詳細を詰めているわけではないように思います。その意味で外来の日本語、というよりは、現時点でジャーゴンとしての側面をもう少し強調した方がよさそうです。

ウィキペディアで取り上げられたような医学領域、番組で扱われた法曹、そして歴史学は、いずれも資料からの実証・帰納的手続きが重視される領域で、本質的に「エビデンス」についての考察が有意義な領域であると考えます。医学におけるEBM(Evidence Based Medicine)はここ十数年で一般メディアでも見かけるようになりました(1999年に創刊した邦文誌EBMジャーナルは概念の一定度の普及を理由とし2008年に休刊となったことが象徴的です)。やはり近年普遍化してきた診断・治療のガイドライン化(臨床行為の客観化を目指す潮流の中で、診療記録の客観化を目的としたPOS Problem Oriented Systemと並び立つ2本柱の一つでしょう。診療行為を行う医師の客観的評価システムとして期待されているのが学会による専門医制度と捉えられます:注1)と「そりのあう」考え方であり、用語としてのEBMを印籠か錦の御旗のように掲げた言動は、21世紀以降医療の現場ではかなりみかけるようになっています(注2)。
「エビデンス」を鍵概念とした20世紀末から現在までの医学などでの思想潮流の底にあるのは、「客観化」です。実証的態度にとってこれまで自明の存在であった帰納的手法への懐疑と、更なる方法論的進展、とひとまずは表現できるでしょう。

①material object物質資料ないし外界(実態として実在するものとして扱う前提が存在します)をevidenceとして扱うためのtext化(医学の場合はPOS、歴史学においては史料批判)、②エビデンスとしてのtextを作成する主体と利用する主体の分離、③エビデンスをより広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定しようとする立場、④エビデンス利用にあたっての情報リテラシーと、その格差からくる権力構造の発生(エビデンスは誰のものか)など、本質的に上記諸学問間で比較検討できるテーマは多いのではないでしょうか。本ブログの根っこに関わる話ですので、時間をかけて各テーマごとに書いていければな、と思います。
ぶっちゃけていってしまえば、医学の中だけでみた「エビデンス」は他所からみたら違ってみえるかもよ、ってことです。いきなり生薬の話から始まって、あやしいブログだなあ、という印象を持たれたかもしれませんが、さらに奇奇怪怪なものにしてしまうこと必定でしょうか?

注1 POSは1968年米国人医師RLウィードによる提唱。
注2 ブログ『内科開業医のお勉強日記』中の記事「EBMジャーナル最終号:EBMの行く末への不安」2008年10月11日は、EBM内側からの現状の批判的直観といえましょう。エビデンスを道具として業をたてていく身として、このような直観は重視すべきことなのです。

2011年11月29日火曜日

近世小田原の医師

近世小田原藩は当初から家中に医師をかかえていました。慶安年間から安政年間にいたる小田原藩の諸分限帳のうち、初めは13名(慶安年間か・「(大久保家藩士録)」板倉文書)もいた医師は1724年には8名(「順席帳」個人蔵)となり、幕末1858年には6名(「順席帳」小田原有信会文庫)と徐々に減っていきます(土井浩1999「大久保氏の家臣団構成」『小田原市史通史編近世』)。記載される医者・医師・奥医師らは禄を伴う家の「職」であり、天明二年の家中法度では町医の二男三男を養子で貰うことについて「不苦候」とこれを認めていますが、それはこの職業が親から子へ継承されることが前提であったからこそです(「吉岡手控」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995年)。三都から離れた小田原の医療状況は良好とは言い難かったようで、1633年時の小田原藩主稲葉正勝が吐血(注1)した折、徳川家光は彼を江戸へわざわざ呼び戻しています(下重清1999「稲葉正勝の小田原入封」『小田原市史通史編近世』)。

量より質、というわけでもないのでしょうが、19世紀に藩校ができると医学教育もカリキュラムに含まれます。山崎 佐(やまざき たすく)氏の著作『各藩医学教育の展望』(1955年国土社)には小田原藩のこととして、以下のような記載があります。

「文政五年(西紀一八二二)藩校諸稽古所(又集成館とも云う)を創立し、年給銀二枚で医術教師二名を置いて、漢方医学を教えた。明治二年六月文武館と改称し、年給四両で医学教師一名を置いた。洋医学志望者は、藩費で他国へ遊学せしめ、また一般に自費遊学を許した。」



天保年間作成とされる「小田原城図」には集成館校庭に「ヲヤクエン(御薬園)」があり、まがりなりにも一定度整った内容であったとは思われます(注2:高田稔1999「人びとの教育と学問」『小田原市史通史編近世』)。ただし、文政五年の御定目によれば、諸稽古所の講義は朱子学が基本とし、「材性は人々同しからさる故、余力ある輩は聖経賢伝之外史子等より本朝の書迄も博く渉り、世道人心に関るは勿論の義、兵備・医業・水利・銭穀之事迄も心懸け、有用の人となるべき志を立可相励事、」と医学はあくまで+αの位置づけでした(『小田原市史 史料編近世Ⅰ』収載史料No262)。

1863年、医学学頭富田元道の嫡子晩斎は、大坂の適塾へ入門し蘭学を修めます。文政から安政年間にかけ市川隆甫・市河魯庵・市河玄智らはいずれも蘭学を習得し、魯庵は藩校の医学学頭にまでなっています(高田前掲1999)。蘭学の伝統は明治にまでおよび、明治二年の藩校改革では、文武館の稽古日で医学は月3日、九つ(正午)からと定められ、カリキュラムが作成されつつありました(片岡文書「(小田原藩幕末重役手控)」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995)。試みは廃藩置県で途絶えるわけですが、『明治小田原町誌』では1876年の小田原の医師は11戸。1885年の『皇国地誌残稿』でも神奈川県内の各村に数軒ずつ医者がいたとのことで(森武麿2001「殖産興業と地租改正」『小田原市史通史編近現代』:注3)、前代からの苦闘の結実のように思われます。

注1 消化管領域からの出血が吐き出される吐血と、肺・気管支からの出血である喀血は現代でもしばしば混同されます。正勝は30代でありながらその後半年の経過で痰など気道症状、るい痩などをみせ1634年早々には他界しており、結核からの喀血は有力な鑑別に挙げられるかと思われます。

注2 上田三平1930『日本薬園史の研究』では小田原藩の記載を認めません(長崎大学薬学部編2000『出島のくすり』)。敷地も小さく薬学史上の意義は限定的ですが、地方史の研究成果により分布図上の空白が埋まる貴重な成果と考え、高田氏の業績を照会する次第です。

注3 1874年制定の医制では旧来からの漢方医にも移行措置として仮免状が交付されており、1876年の医師数は漢方・蘭方双方の医師を含んだ数値です(島崎謙治2011『日本の医療』)。

2011年11月28日月曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(12)

<薬理・薬味・薬能>

『名医別録』には「煎じて用いれば、吐血、下痢、下部のチク瘡、夫人の漏血を止め、陰気を利し、肌肉を生じ、風寒を辟け、子を儲ける」との記載を認めます。『日華子本草』では「帯下を治し、霍乱、転筋、痢後の寒熱を止める」とあり、下焦の虚寒に対する薬剤で,
止血も経を温める効果からきていると評価されます(難波1980)。
 上記のような漢方上の知見を受けてとおもわれますが、近世以降の民俗例でも灸治以外での使用を認めます。1847年大蔵永常の民間応急処方集である『山家薬方集』には、多数ある灸治例に混ざるように下記方途が出てきます。

痢病の治方「生姜壱匁よもぎ五分常のごとくせんじ用ひて妙也。」
のんどのはれたる「生艾をしぼりしるをのんでよし。」
 他、しらみに対して「艾弐匁醋(ス)にてせんじつめたる汁ををつけて妙也。」

 現代においても、埼玉県では「水あたり」に対し、「ヨモギやフキ(蕗)の葉の汁をしぼって水に入れて飲めば水あたりをしない」、また止血目的に「ヨモギの葉をもんで傷の部分につける」ということが行われたようです(「民俗調査報告書」『埼玉県史』)。

  このような使い方は、別記の通り漢方が主流でない地域の使用例とも類似しているようには思われます。それにも関わらず、基礎研究においてevidenceの集積は比較的進んでいないのではないでしょうか。
A. princeps PAMP.の場合精油0.02%を含み、その半分はシネオールです。基礎研究で
は体温降下作用を認めますが、作用量が致死量に近く積極的な解熱薬にはなりません。また止血効果も証明できないようです。ヒスタミンの毛細血管透過性の抑制、グラム陽性球菌、皮膚真菌に対する成長抑制作用などが報告されています(難波1980)。艾葉について近年の研究をPubMedで通観すると、抗腫瘍効果や糖尿病の抑制効果に着目した論考が多いようです。

 単剤で効果が顕著でないこともあってか、金匱要略収載の艾葉含有処方は多くなく、芎帰膠艾湯と柏葉湯のみで、うち柏葉湯は馬糞を使用するためか現代保険収載は前者のみになっています。君薬になっているものがないこともあって、吉益東洞は艾葉の効果を「得て知るべからず」としました(吉益1763『薬徴』大塚敬節2007年校注)。

2011年11月22日火曜日

2人称敬称について:追記

さて、ヨーロッパの2人称敬称について、です。前回までで、①ヨーロッパの2人称敬称はもともと2人称複数が先で、その後3人称が取り入れられる、②その受容の仕方に言語毎の違いがあることを類推しました。2人称敬称の由来がどこか、というところまで議論を進めていたわけですが、なかなかどうして、調べていくと興味深いことはまだまだ、ありそうです。出典がネットを大幅に含みますが、素人であってもできる限りロジカルに検討できればと思います。

①ドイツ語の2人称複数での敬称
前回まで確認できていませんでしたが、ドイツ語も遡ると2人称複数Ihrを敬称として用いていたようです。ネットでも複数hitしますが、興味深いのは農芸化学者本多忠親氏のHP中にある「オペラの言葉」です。

「ドイツ語もイタリア語も本来はフランス語と同じであったようで、オペラの世界ではほぼ二人称複数形を敬称に用いると思えばよいのだが、現在話されている言葉では、いずれも二人称複数形を単数の敬称に用いることはなく、三人称から派生した別の形を用いるので話がややこしくなる。」
オペラなので、比較的最近の頃まで2人称複数を用いていたのですね。郁文堂1988年発行の『独和辞典』でIhrを検索すると、17世紀頃まで目上に2人称として用いていたのが、その後目下に使うようになった、とのことでした(英語史学者堀田隆一氏のブログ「英語史ブログ」をみると、こういうのを指して敬意逓減の法則というのでしょうか)。

②スウェーデン語
北ゲルマン語群中のスウェーデン語は、もちろん古代ローマ帝国の版図外であったわけですが、なんと現代でも2人称敬称は2人称複数を用います(HP「talar du svenska?」参照)。
同じ北ゲルマン語族中でも、現代デンマーク語は3人称複数由来を用いるようです(HP「デンマーク語独習コンテンツ」)。ここいら辺、3人称の受容が言語毎に違うという考えと矛盾しないようですね。

さて、こうなると難しいですね。北・西ゲルマン語派も含めたヨーロッパ一体で、かっては2人称複数が使われていた可能性がありそうです。印欧語族スラヴ語派東スラブ語群のロシア語・ウクライナ語(Wikipedia「ロシア語」「ウクライナ語」)、また印欧語族バルト語派東バルト語群であるリトアニア語も、2人称複数を敬称として用います(Wikipedia「リトアニア語」)。ちなみにロマンス語の東端ルーマニア語は、主格以外は2人称複数が敬称という、やや崩れた形をとります(HP「ルーマニア語」)。
これまで得られた情報から類推する限り、2人称複数を敬称とする淵源は、二つ仮説が残ると思われます。

A、後期ラテン語からの発生
定説はこちらです。前回引用したように、一般に古典ラテン語では複数形を尊称として用いる伝統は無いとされます。中途から皇帝らは自分らのことを複数であらわすようになりますが、それを受けて皇帝、教皇、司教に対しtuの代りにvosを用いるようになった(「敬称の複数 pluralis reverentiae」)ことが、中世ラテン語で2人称複数が敬称として扱われる由縁です(國原吉之助1975『中世ラテン語入門』)。使われ始めた年代が手元に資料が無いのですが、ネット上4世紀から、と記載されているものがあり、後期ラテン語Late Latinから、ということになるでしょうか。
この説でいえばゲルマン語派やバルト語派・スラブ語派の状況は、ラテン語からの2次的影響ということになります。実際、歴史的な経緯からドイツ語にはラテン語由来の外来語が500以上存在し、言語としての影響力からもその可能性は現状で完全には否定できないでしょう。また、ゲルマン語派の最古のまとまったテキストは4世紀が最古(Codex argenteus: 河崎靖2006『ゲルマン語学への招待』)とのことで、史料的遡及に限界もあります。ただし、古典ラテン語で使われていないから、という根拠は弱い部分があるようにも思われます。

B、印欧語祖語からの伝統
あまりにも分布が広範で、ここまでの情報ではこちらも完全に否定はできないように思います。

両者のどちらが正しいか、確認するためには下記の確認が必要でしょうか。

即ち、印欧語族でラテン語の影響のない言語に2人称複数を敬称とするものが、複数みつけるか、もしくはみつけられない。

、、、仮にみつけた場合、系統言語学的評価でいつごろから使用開始されるに至ったか推測できる可能性があります。いずれにせよここまで来るとかなり膨大な作業になってきますね。中近東・南アジアの分析なんかどうなのかなあ、、、(印欧語族インド語派バハール語のネパール語は敬称こそあるものの、原理はこれまでと異なるようですね。他はどうなんだろう)?

追記
堀田隆一氏のブログ「hellog~英語史ブログ」ではT/V distinctionについて、 ヘルムブレヒトの興味深い研究を紹介しています。上記のような古典的伝播論とは異なった切り口で、ぜひご一読を。
Helmbrecht, Johannes. "Politeness Distinctions in Second Person Pronouns." Deictic Conceptualisation of Space, Time and Person. Ed. Friedrich Lenz. 2003. 185--221.

漢方生薬考 ヨモギ属(11)


モグサを日本産ヨモギへあてることが古来より安定していたためか、近世前期・中期の薬種同定事業、朝鮮との薬種貿易でも「艾」は対象にはなりません(田代前掲1999)。輸入する必要のある薬種とは扱われず、かえって17世紀に入ってからモグサの国内生産・流通を確認できる文書が出現してきます。まず名産地として、1691年出版の『日本賀濃子』には近江名物として「伊吹蓬艾」が挙げられています(もう一つの名産地として知られる下野標茅原は1697年『日本食鑑』に近江産に次ぐ扱いででてきます)。貝原益軒1708『大和本草』では「江州胆吹山ニ甚多シ其麓ノ里春照ナトノ民家ニ多クウル」との記載で地元農家の小規模販売の様相ですが(1754年の『日本山海名物図絵』でも「山下の民家に(中略)もぐさとて売之」と同様のニュアンスを認めます)、その後近松門左衛門作『椛狩剣本地』(正徳41714)年)では下記のような口上があり、町への艾売り進出が窺われます。

「旅人衆が大勢門に立てじゃ。おっとがてんと見世先にすすみ出、いぶきもぐさの功能を商ひ口にぞのべにける。凡諸国に蓬おほしと申せ共もろこしにては蘄州四明が洞。我朝にては当国江州伊吹山周の幽王の吉例を以て、三月三日に刈始五月五日の露を請日にさらし月にほし、(中略)此もぐさのゐとくには時をゑらはず日をきらはず思ひ立つ日に人神なし。(中略)くすし入らずの御重宝捨るとおもふて只六銭。」

さらに踏み込んだ生産・流通体制もあり、大垣藩は17世紀前半からもぐさの生産流通管理を行っていました。揖斐郡春日村文書には「もぐさ20726日納 寛永131636)年より上納」「伊吹もぐさ3俵(中略)天和21682)年肥後守様代より上納」などの記載があり、大垣藩は春日村など揖斐郡西山筋の他、同郡北山筋(坂内村、藤橋村、久瀬村)からも「もくさ」上納を受けており(宮川家文書「北山筋村々古来書御帳」1700年:寛永161639)年より山年貢として上納開始)、もぐさ生産の藩による管理が一定の水準に達していたものと思われます。孤松子1685『京羽二重』は当時の町案内ですが、室町綾小路と三条白川橋にもぐさ屋を2軒認め、そのような生産物の集約が背景にあるものと思われます。そのような市場競争の結果、香川修庵1729『一本堂薬選』では看板に伊吹艾とあっても実際に売られているのは皆美濃、越前の産であることが指摘されています(国香寛1839『灸功編』でも類似の指摘を認めます:織田1998では近江での生産例を示し、本表現には誇張が含まれていることを示唆しました)。ただし越前もその後産地として衰退していったようで、1836年の冥加銀半減願(斉藤寿々子家文書・大野歴史民俗資料館蔵)ではヨモギの産出減とモグサ業者の減少が描かれています(明治6年の内務省勧業寮物産調査では富山が生産量首位で福井は2-3位。滋賀・岐阜は産量の点で両県に全く及びません)。

東洞1771『薬徴』では内服は芎帰膠艾湯のみの記載で、弁誤で灸法についての議論(即ち、病状の寒熱を評価したうえで灸法の適否を決定せよ)を展開しています。品考では「売るところのものは他物を雑ゆ。正すべし。」との記載があります。

蘭山1802『啓蒙』艾ではヨモギの他モチグサ・フツ・ブツなど諸名称を訓じます(注8)が、淡路モグサを称揚し、近江伊吹山産のものをヌマヨモギ、蔞蒿A. selengensisであって艾ではないとしました(宗伯『古方薬議』もこの説を支持しています)。現代日本ではむしろタカヨモギと訓じられることの多い蔞蒿ですが、牧野1982ではこれをオオヨモギにあてています。蘭山の観察は「苗ノ高サ一丈余ニシテ葉モ長大ニシテ尺ニスギ、(中略)香気少クシテ」とオオヨモギの特徴を的確にとらえており、オオヨモギの分布が近畿までと西限に近いこと、京都在住の蘭山が東方の見慣れないオオヨモギを見てこれをヨモギと異なるものと評価し、かつヨモギより劣る品ととらえたものと思われます。

さて、国産ヨモギを薬種として品考するとき、蘭山のように産地だけではなく種の違いにも目を配る必要があります。貝原益軒が『大和本草』後に書いた『養生訓』(1713年)では、
「名所の産なりとも、取時過ぎて、のび過たるは用ひがたし。他所の産も、地よくして葉うるはしくば、用ゆべし。」
として、成長して大きくなりすぎたものは良くないとの記述になっています。益軒の時点では種が違うというアイデアまで到達していなかったようですが、実は別の品種である、との認識は先行する1680年前後、農作物の生産に深く関わる村役人層の観察に初出があります(古島敏雄校注1977『百姓伝記』)。巻十二中「もぐさを作る事」では、「もぐさ種両種見へたり。」として、一方を「葉の大にしてやう大まかにきれ、」「にほひうすく、にがみもすくなく、ほしてもむにわた少なし。」もう一方を「葉小葉に見へてえうのきるる事こまかなる有。」「にがみ多く、ほしてもむに真(わたカ)多く、にほひふかきやうなり。」と記載。現代植物学におけるヨモギとオオヨモギのこととして、まず間違いないものと思われます。寒川辰清1734『近江與地志略』でも伊吹モグサの製造販売で原料にオオヨモギを使っていた記載があるようで(織田1998)、先述した19世紀蘭山の記載は17世紀後半から18世紀のこのような流れを受けて出てきたものでしょう。飯沼慾斉1856『新訂草木図説』では美濃北部吾北山の山人は「モグサの原料としてオオヨモギを貴ぶが、ヨモギに比べ香味劣る、、、」(織田1998の訳)と記載しており、幕末までにはヨモギ/オオヨモギの弁別はすでに安定したものになっていると評価してよさそうです。
 興味深いのはモグサ主生産地の推移で、近世から現代にかけ(近江・)美濃→越前→越中→越後と移動します(織田1998・織田1999)。このような移動の原因として、織田19981999は北陸でもともと産量が多いことと、冬季の労働力が期待できることを挙げていますが、旧産地衰退の原因としてヨモギに対する高採集圧のもとヨモギ群落が徐々にオオヨモギへ遷移し、その結果薬種に供せなくなることが見逃せないと考えます。
このような過程を経て、現在日本産では上述のようにヨモギA. princeps Pamp.とオオヨモギA. montana Pamp.の葉を乾燥したものをともに正品とします。伊吹山麓の柏原は中山道の宿場町でもあったことから名産品としてのモグサを商う一角が形成され、地方を回る艾売りもいました(落語「亀佐」:HP世紀末亭)。天保14年の同宿における職業記録ではもぐさ屋は9軒。屋号はいずれも亀屋であったようです(HP『旧街道道草ハイク』参照:安藤広重『木曾街道六拾九次之内柏原』にも描かれています)。江戸の艾販売は紋様が同じことから命名された団十郎艾が有名でした(真柳誠2005「江戸のもぐさ屋」『日本医史学雑誌』51(1))。

後記:出典など、織田隆三1998「モグサの研究(10)」全日本鍼灸学会雑誌48(4)、および織田1999「モグサの研究(11)」全日本鍼灸学会雑誌49(2)によるところ大です。
  
注8 
「フツ」はヨモギを指す九州方言で、現在まで至る。琉球方言の「フーチバー」も、「フーチ葉」の義であり、同根と思われる(湯浅浩史2004『植物ごよみ』)。

2011年11月20日日曜日

日記:ホークス優勝おめでとう!

11月20日曇 日中は暑いくらい。


 日中は運転免許更新にでかけました。電車内でノモンハン会編『ノモンハン日記』をやっと読了。近現代史は一次史料の厚さが他と全く違うことを痛感。アプローチをどうしていくか、まだまだ詰めるところはたくさんありそうです。

 ホークス、ついに優勝、日本一!最後の最後までヒヤヒヤしたけど、やってくれました。息子にとっては初めてのホークス日本一。来年もいい一年になりますように、、、、、。

2011年11月16日水曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(10) 艾葉

平安初期に編纂された『新撰姓氏録』に欽明朝の事績として明堂図がもたらされた旨記載されているのが、記録上鍼灸が取り上げられた初見ということにになります(関晃1956『帰化人』2009年再版)。記紀に記載されているわけでもなく信憑性は評価困難ですが、灸治はその後比較的短期間で国内に広がったらしく、神亀3年(726年)山城国愛宕郡雲下里計帳や、天平12年(740年)越前国江沼郡山背郷計帳でも「灸」の記載を認めます(前者では45歳正丁の戸主の右手に「灸」の痕跡あり:新村拓1985『日本医療社会史の研究』同1983『古代医療官人制の研究』)。また宝亀年間(771-772)の東大寺写経所写経生壬生広主の治療でも「治焼」とあり、灸治が推定されています(丸山裕美子1998『日本古代の医療制度』)。

 灸治に用いたモグサ熟艾・温灸艾は葉裏の繊毛を調整したものですが、治療法の淵源からも当初は輸入、その後国産となったことがモデルとして想定されます。近世、大槻茂禎1817は『灸艾考』でその変化を延喜の頃からではないかと考証しましたが、上記のような灸治の普遍化からは、より早い時点で国内産を用いていたと考えるべきでしょう。延喜式巻第37典薬寮の条文中には「熟艾」が挙げられているにも関わらず諸国進年料雑薬では記載が無いのは、朝廷からの頒布に頼らない水準までヨモギ/モグサが各所で採取され、一定の階層までには使用されていたことを示すものと考えます(ちなみに「熟艾」の初出は757年養老令中の軍防令備戎具条、ただし発火用のホクチ火口として)。空海797『三教指帰』「瞳矇を鍼灸して此の直き荘に帰せしめよ。」、山槐記(中山忠親の日記)仁平21152)年96日条「実長朝臣ノ灸治暇ノ事ヲ申ス」など、平安期以降になると灸治の記載は事欠かないようになります。

 そのような状況で源基となる植物について、古く平安初期の輔仁『本草和名』や順『類聚和名抄』から、「艾葉」はヨモギと訓じられました。以後近世に至るまで、国内において一貫して「艾」は日本産の「ヨモギ」で説明され、中国のものとは別種とする視点は、全くありません(なお「もぐさ」の初出は1275年『名語記』「やいとうのもぐさ如何。熟艾とかけり」とされます)。ヨモギの産地について、基本的に近世まで不明ですが、10世紀の歌人藤原実方は『御拾遺和歌集』収載、後に百人一首51番となった著名な和歌で「いぶきのさしもぐさ」を燃ゆる思いとかけていて、当時から地名としての「いぶき」とモグサを結び付けるイメージがあったと思われます(注)。

1573年茨木二介『針聞書』には40の病態に対し39の生薬が内服用に用いられていますが、その中にはヨモギ属は含まれていません(長野仁・東昇2007『戦国時代のハラノムシ』)。以後も内服に用いるヨモギは灸治に比べると貧弱な状況が続きます。

 『日葡辞書』ではYomogui「灸をすえる(botoes de fogo)のに用いる草」、Qiu「ある灸のすえ方(botam de fogo)」QiujiQiuji suru灸治する」Yaito「ある乾かした草ですえる灸(botao de fogo)」などの用例が確認できます(現在でも愛媛では方言でヨモギを「ヤイトグサ」とします:都丸十九一1971)。安土桃山期の曲直瀬道三は『鍼灸集要』『指南鍼灸集』。古方派も後藤昆山など灸治を称揚し、近代にまでそのような状況は継続することとなります。

注  「いぶき」は下野国の山を意味するとする異説あり(Wikipedia『藤原実方』)。