市から配布されたばかりの『広報おだわら』2011年12月1日号では、切迫性が高いとされる神奈川県西部地震において小田原市内の最大浸水深を3.3mと評価。海抜10m以下を含む地域について津波対策を検討しているとし、市内の津波避難ビル一覧と地図を掲載しています(防災対策課・地域政策課「津波から逃げる!!」:注1)。津波避難場所の選定にあたり困難があったことはこれまで各新聞でもとりあげられたところですが(注2)、実際『小田原市史別編自然』2001年を繙くと、関東大地震の際、相模湾他で津波があったとの記載があります。実態はどうだったのでしょうか。
出版されたばかりの朝日新聞出版『完全復刻アサヒグラフ関東大震災・昭和三陸大津波』2011年は過去の罹災直後の文章・写真が多数掲載され、各地域での災害対策を行政だけではなく皆で考えていくという視点にとって、極めて示唆に富んだ刊行と思われます。授業での課題研究など最適ではないでしょうか。ここでは、津波についての記載を抜き出しましょう。
「伊豆半島熱海 、、、同地方は二丈余(6m強:久保田注)の大海嘯オオツナミ二度も襲来し惨害甚だしきものであった。海嘯のためさらはれたもの百五十余戸、、、」
「伊東 伊東町は海嘯の被害が最も甚だしく海岸より約五町(約5ha?約550m?)の区域は海嘯のため浸水し住家五十余戸は影も形もとどめず。八十余トンの帆船は六丁余(約660m)を陸地に乗り上げて、、、」(以上65頁)
波高について、『理科年表平成23年』に熱海12m、相浜(千葉県館山)9mとの記載がありますが、駆け上がったところではそこまで上がったということでしょうか(注3)。地理的範囲については、先のアサヒグラフ3頁に津波被害の概況が地図として表現されていて、真鶴以南から伊東よりやや南方において被害が大きかったようです。よくみると相模湾対側の鎌倉近辺にも津波の表現がありますが、ネットでも『知られざる鎌倉探索』で波高7-8mと記載される津波の被害が紹介されています(浪川幹夫氏2004年)。
小田原近辺は津波の表示が目立ってはいません。68頁の記事でも「地震、火災、海嘯の三方攻撃に会う」との記載がありますが、津波事態の記載はほとんどありません。中野敬次郎1968『小田原近代百年史』でも、元禄地震の海嘯についてこそコメントしているものの、関東大震災は建造物倒壊や火災・山津波などの記載が主で津波の記載を認めないようです。
他の被害が大きすぎて津波情報がマスクされてしまっているということも、皆無ではないでしょう。「全く無くなった小田原 一望荒涼として死傷一万一千、、、その惨状は言語に絶している、、、全町の三分の二は焦土と化した。」明治時代の高潮被害は中野氏が『百年史』で特記するところであり、リスクを考える必要は確かにありそうなのですが、、、。寡聞なだけかもしれませんが、堆積状況から過去の津波を復元する調査が市内でも活発に報告されることを、切に望む次第です。
関東大震災以前の地震については、前掲『小田原市史別編自然』に寛永地震(熱海・宇佐美)、元禄地震(相模湾他)で津波ありの記載があります。ディアナ号の損壊で著名な安政地震でも被害があり、これらについてネットでは、羽鳥徳太郎2006「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東、安政東海津波とその他の津波の遡上状況」が検索可能です(注4)。元禄地震では上総湊-館山間で5-10m、三浦市間口で6-8m。安政東海地震で浦賀3m、鴨川3-4mとのこと。また、書籍では目を通せていませんが渡辺偉夫1998『日本被害津波総覧第2版』が基本文献のようですね。
注1
タウンニュース小田原版2011年11月26日号「避難ビルに8000人受け入れ」
標高、避難場所など、小田原市地理情報システムNAVI-Oナビ・オダワラでネット検索ができるようになっています。
http://www2.wagamachi-guide.com/navi-odawara/top/select.asp?dtp=17
注2
神奈川新聞カナロコ2011年10月15日配信「小田原市の津波避難ビル指定は半年で14棟にとどまる、自前の整備も必要」
注3
2012年版の理科年表は大震災も踏まえ、自然災害に多くのページを割いているようです。
注4
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P037-045.pdf
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