2011年12月7日水曜日

エビデンス覚書(2) 広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定する立場

両者の懸隔は狭いようで、広い。、、、ここでいう立場とは、絶対的な立ち位置と、向かおうとするベクトルの二つでそれぞれ考える必要があります

 時代の潮流(その時の、流行り)毎、あるいは学問毎にどちらかが優勢なことはよくあることと思いますが、もうひとつエビデンスに供せるテクストの量が立場を大きく規定するということはありそうです。例えば臨床研究を行う立場(=現代の症例群からよりより診断法・治療法を決定したい、エビデンスを作りたい立場)からは、これから症例を集めるにせよsample sizeが相対的に大きく、それ故により質の良い対象を集めるためにinclusion criteria選択基準、exclusion criteria除外基準の厳密化が顕著です。それに対し、テクストが既に作られていて質・量に限りがある歴史学の場合、同じようにはいきません。

 また法曹畑でもForensic Medicine法医学などは、医学部に付属することに誰も疑問を持ちませんが、このようなテクスト論からいえば臨床医学的な立場と歴史学との中間的なものであることがご理解いただけるのではないでしょうか。

 そうはいっても、行政文書が比較的多数残っている地域・年代の研究者にとり、例えば政治史を試みるものはtext critiqueの方法論が命綱になりますし、その発達こそが近代史学の誕生を導いたその後の反動ではtext critiqueの結果見過ごされた史料の中でも、他のテーマであれば十分歴史学の対象となりうることを指摘した社会史・心性史の流れがあったわけです(他学からみれば両者の違いは立ち位置の違いはわずかで、むしろベクトルの違いなんだな、ということがよく感じられますが)。ミシュレやティエリ、クーランジュに対し史料批判が不十分であるとするセニョボス、ラングロワらの批判が「正統」であることは言を待ちません(注1)。ただしその後の学史的展開を俯瞰するかぎり、歴史学の学問としての拠り所は、エビデンスを狭く取ろうとすることそのものにあるというよりは、エビデンス措定に対する方向性の違い・可能性を常に再識し、研究者の立ち位置を明らかにすることにあったといえないでしょうか。

また、エビデンスを「作る」側と「使う/消費する」側でもベクトルは異なりえます。この場合方向は必ずしも一様な関係ではなく、例えば臨床医学で厳密なエビデンスを求めて対象を狭くとろうとしすぎると、実用の場面ではエビデンスからはみ出た症例が多くなりすぎるということが多々あります。現在克服されつつありますが、非小細胞肺癌に対する治療のエビデンスは体力的に余裕のある70-75歳未満でまず集積が進み、国内でむしろ多数派である高齢者で治療の根拠が弱い、ということがありました(最もこの点は、どのような症例で積極的な治療が勧められないか、ということに対するstudyが組まれない限り不分明な部分が残るように思われます)。逆に対象を広くとったために、よくわからないぼけた結果になってしまうこともあります。抗癌剤のゲフィチニブはかって非小細胞肺癌症例全体を対象としたstudyで有意な治療効果をみいだせませんでしたが、2010年以降EGFR変異の有無・種類で対象をしぼるとかなり異なる結果になることがはっきりしつつあります。

注1 中野知律1999「『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書」『一橋論叢』121(3)
「伝説に起源を持つ主張は、いかなるものであれ、拒否することがルールである」
(セニョボス・ラングロワ1898『歴史学研究入門』より、中野訳)
他フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』(原著1864年:1995年邦訳)参照

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