2011年12月11日日曜日

学会の内と外

皆既月食、すごいですね。6歳の息子を起こそうとしたけど、ぐっすりでだめでした。
また今度見ようね。

さて。12月10日朝日、井上正男氏「地震学の敗北 学会や報道の体質改善を」について、思うところを。

「できるはずだと思っていたのに、なぜ東日本大震災のような巨大地震を予測できなかったのか。」
氏は10月、日本地震学会に取材した後、上記のような問題を設定し考察を進めます。氏が整理する問題点は2点。
(1)「学会の体質」
地球物理学や地質学など「門外漢」のいうことに耳を貸さず、内部で相互批判が希薄で「仲良しクラブ」になっている、と。
→「学会はさまざまな学問分野の視点や批判などに門を開き、外国人、若手もとりこんで、研究と議論を活性化させなければならない。」
(2)「科学ジャーナリズムの体質」
批判的に研究成果を吟味することなく、そのまま報道したのがよくない。
→「一定の科学知識と自立的な批判精神を持ちうる人材を育て、地震学者や学会といい緊張関係をもちながら情報を発信し、こんごの防災につなげていくべきだ。」

(1)について、わかりやすく内容を伝えることを意図してか内容がやや煽動的に思われ、結論自体は妥当だと思うのですが、学会内部に届く意見になっているかというと疑問なように思います。外野から推測するに、学会内で批判的応酬をしていない、という内部の自覚はそれほどないのではないでしょうか、どうですか?研究対象をテーマ・方法論ごとに細分化し専門家群を措定する一連の作業が「学会」というギルドの営みです。井上氏のあげられる問題点はむしろ、学会が対象とする体系のもつ暗黙の前提についてのもので、むしろこの点を学会内部で批判的に吟味するのは最初から困難で、当初から外部との接触が必要な部分であると思います。

 他の学問をひきあいに出します。癌患者に対する臨床的アプローチは臨床腫瘍学会が主に扱うところで、外部からみてもそのように認識されますし、また専門医の認定も行っています。新聞記事でも腫瘍専門医が何人いるかなどの記事は日常見かけるところでしょう。患者の立場からみると彼らには治療を行うべきか否かの判断も基準の提供者として、当然期待したいところです。ただし、現在の腫瘍学のロジックからいえば治療を行うかいなかの判断基準は「それによって寿命がのびるか、のびないか」にまとめられてしまいます(臨床科学としての客観化が進んでいる分野ほど、その傾向があります)。患者や家族が判断を行う際は、当然異なるべきですが高次機能病院で説明を受けるほど、当然(そう、至極当然なのです、学問というロジックの内側からみれば。そこに批判的見地の成り立つ余地はわずかです)寿命がのびるかのびないかだけで判断基準を説明され、最終決定が委ねられます。医師個人のヒューマニティなどは別次元で発揮され、この点はある意味きわめて無機的です。

 問題は医師の側がそのことにどの程度自覚的で、かつ患者・家族に提示できるかですが、、、、それこそ自戒をこめつつ、私自身できていないこともけっこうあったように思います。近藤誠氏による一連の化学療法批判の本質は、上記の中にこそあると思います(もっとも、ややこしいのは批判するときの方法論が、グラフやら生存率やら、腫瘍学の土俵にあたかもあがるような形をとるところです)が、それに対し週刊誌に掲載された腫瘍内科医の論考で、それこそ自信たっぷりに近藤氏の方法論で至っていないところを指摘し、だから信用できないのだ、というものがありました。、、、そうではないでしょう。治療方針の決定にNBM(患者・家族のナラティブの重視)が不可欠だとすれば、そこにはRCTとか症例数とか有意差とかでは割り切れない世界があるのは当然です。そのことへの十分な指摘なしには、議論は交差することのない、弁証法的営為のないものになってしまうのではないでしょうか。また、治療を受けたくない、といっている患者に対しきわめて冷たい医師はどこにいっても本っ当に多いのですが(共感できないからであって、相当根の深い問題です)、解決の方策は
本質的には腫瘍学のロジックの外にある話でしょう。

 かってオルテガ・ガセットは『大衆の反逆』で、専門家が専門領域以外では全くの大衆と変わりないことを告発しました。それは実は専門領域のすぐ近くでも(いや、だからこそ)発生するのです。専門家という皮を被ったバーバリアンにならないためには、自分のロジック以外をどう導入するかを考えることが、不可欠です。

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