帰納的推論からより有益な結論を導き出すためには、根拠となるエビデンスを利用するにあたって、その作成者と利用者が異なっていることが、本来は望ましいでしょう。
上の文章は、ガイドラインの作成にあたって利益相反を意識するようになりつつある昨今の臨床医学を考えると、更にその先の理想論のように思われます。ある疾病の治療にあたってA製薬の薬が本当に勧められるか評価したいときに、根拠となるデータ、エビデンスの作成にA製薬自身が強く関わっていると聞いたら、第3者であれば眉唾物にしか話を聞かないでしょう。しかし、一昔前まではそのような研究を利用せざるを得なかったのが実情ですし、現状でも一定の影響は抜きがたくあるといわざるをえないように思われます。優れた研究者は優れた臨床家でもあることが、少なくとも「建前」としてはれっきとして存在する医学において、臨床家自身の研究は勿論ガイドラインの作成者自身もその薬を治療に使う以上、かってはstudyの立案・計画、場合によっては評価まで製薬会社の影響があったことは否定できないでしょう。かって一定の根拠をもって公的に認可され、長いこと販売されてきた薬剤が近年になり、「効果が否定された」という判断のもと使用されなくなった、という例は、残念ながら稀な例とはいえません。
この作成者と利用者の分離は、外の学問体系から考えるともう少し明瞭になるように思われます。例えば、歴史学においては学説の根拠となる史料の作成者は現代史を除き、学説の提唱者と時代的に分離されていて、特殊な状況以外では利益相反を議論される余地はありません。また学説の提唱が特定の利益を誘導するかどうかも、一部を除いて議論する必要はあまり無いように思われます(注1)。同じ現代を扱うにしても、司法は警察・検察と裁判所を分離する努力を行っていますが、医学ではそこまで徹底した分離は意識されていないのではないでしょうか。
ささいな問題では全くないことは、冤罪事件の社会的重大性や、歴史における注1のような例外が複雑な様相を呈することが多いことを考えればご理解いただけると思います。自分の理屈の中にいると簡単にみえる結論が、外からは実はそうではない(注2)。治療方針のエビデンスに基づいたガイドライン化を今後進める場合、結論の限界にどの程度自覚的になって治療を進められるかは、臨床家各自にとっても喫緊の課題だと思います。、、、というのも、「学会」でつくられた「ガイドライン」に基づいた治療、という言説には、本来的にM.フーコーがいうところの権力がつきまといます。EBM導入当初の言説として、EBMは治療の可能性を制限するものとはならない、という論調がかってありましたが(EBMジャーナル創刊当初の論考だったと思います)、現実にはガイドラインは「正解へ導く海図」としてだけで無く、患者の「無知を罰する武器」としての側面を期待する利用者が増えてきているような気がしてなりません。
注1 例外として考えないといけない一例が、結論の要素中に、国籍や性別、宗教など、研究者本人の属性に関わることが含まれる場合でしょう。
注2 明治前半において伝統医学よりも西洋医学が優れているとの言説は多数なされましたが、当時の新聞広告にみる薬方で現在にまで至るものがどれほどか、といえばきわめてわずかでしょう。それをもって不断の学問の進展を言い募るとするならば、それはあまりにも楽観的だと言いたくなるのは私だけでしょうか。
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