2011年12月17日土曜日

お観音さんのだるま市(1)

今日明日は飯泉観音のダルマ市です。近辺では冬の風物詩として長く親しまれ、小田原から他所に出た人にとっても懐かしい思い出ではないでしょうか。 

達磨(だるま 菩提達磨ボディダルマ)は禅宗の初祖として知られる、中国南北朝時代の僧侶のこと。面壁9年の座禅で四肢を失ったとの伝説があり、室町時代に伝来した酒席の玩具「不倒翁」が禅宗の広がりとともに江戸時代にだるまの座禅像に置き換えられた、というのが定説です(斎藤良輔1969「だるま」『大日本百科事典』小学館)。「不倒翁」の詳細が不明ですが、そこから室町時代には「起き上がり小法師」が派生、狂言「二人大名」でも取り上げられる一般的な存在になります(注1)。『日葡辞書』で「Coboxi小法師」はBonzinho、即ち小さいBonzo(坊主)、またはMenino rapado剃髪している子供、を意味します(岩波書店1960年『日葡辞書』)。外見的にも「不倒翁」から「だるま」までにはいくつかのプロセスを経ていることを推測すべきでしょう。山田徳兵衛1975「だるま」(旺文社『学芸百科事典』)ではだるま意匠の採用が江戸中期、幕末には類似玩具はダルマでほぼしめられるようになるとのことです(1830年成立の『嬉遊笑覧』では「達磨を翫物とするも近き事にハ非ず」とあり、文政年間には由来が既に不明瞭になっていたようです:都丸十九一1971「だるま」『日本民俗事典』)。

立木望隆1976『小田原史跡めぐり』では飯泉観音ダルマ市の由来を「四百年も昔の永禄のころからすでに始まっていたという。」としています(残念ながら出典が記載されていません)。戦国時代まっただ中である永禄年間で、市で売買されるほどにダルマが起き上がり小法師として定着していたとは、これまで述べてきたことからは考えがたいものがあります。また『新編相模国風土記稿』(1841年:『大日本地誌体系』本参照)足柄下郡巻之十五成田庄飯泉村観音堂の項でも、「毎年正月六月十二月の十八日(注2)には境内に市ありて、時用の物を交易す」と記載され、歳の市が他の市より特筆されているわけでも、またダルマが主体の記載になっているわけでもありません。やはり『風土記稿』で、永禄51562)年12月に飯泉山へ北条氏からだされた法度が虎朱印状として残っており、上記伝承は飯泉観音自体の重要な画期とダルマ市が混同しての結果とも思われます。いずれにせよ民間に流布した観音信仰・不動信仰は教義のためかダルマ市の母体となっていることが多いようで(注3)、平安朝弘仁仏とされる十一面観音を据える観音堂の行事として、必然的に現代にいたったものでしょう(ちなみに同寺が千代にあったころの山号とされる「補陀洛」は南海にある観音の住まう処に由来します)。

『神奈川県の歴史散歩下』(山川出版社1987年)の「飯泉観音」より:
「毎年暮の121718日の歳の市は関東初のだるま市として大変なにぎわいをみせる。この日以降、正月の準備を始めるという。」

 飯泉で始まっただるま市はその後関東各地で開かれ、翌年33日武蔵国深大寺でトリを迎える、というのが一般の説明。「飯泉の歳の市が終ると市内ではいよいよ正月準備に追い立てられるような気がするとよくいわれる」(西海賢ニ1988「小田原民俗小誌(1)」『おだわら-歴史と文化-2号)。明治生まれの古老が子供の頃の童歌で、下記がよく紹介されます。

お正月がござった

どこまでござった

飯泉までござった

何に乗ってござった

ゆずり葉にのって

ゆずりゆずりござった

            (立木前掲『小田原史跡めぐり』より)

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