2011年12月17日土曜日

お観音さんのだるま市(2)

 、、、ここでちょっと寄り道しましょう。ユズリハは学名Daphniphyllum macropodum Miq.トウダイグサ科ユズリハ属の常緑高木で、西日本から半島南部・中国の山地に分布。枝先に集まって互生する、大柄な長楕円形の葉が特徴的です(牧野富太郎『原色牧野植物大図鑑』)。花は5-6月、実は晩秋ですが、新葉と旧葉の入れ替わる様が特徴的であるために縁起物とされ、「歳首ノ賀具トス」(『大和本草』)「都鄙正月鑑餈(カガミモチ)及門戸之飾用」(『和漢三才図絵』)のように、正月に葉を飾り物として使いました。小田原においても前掲西海氏の論考で下記のような記載を認めます。
「(正月の)オカザリの中心は歳神、大神宮、恵比須でこれらには、うら白、ゆずり葉、橙などをつるした。」
正月は、まさにゆずり葉に乗ってダルマ市にやってくるのです。

やはり西海氏の聞き取り調査(西海前掲1988)では、明治40年前後まで酒匂川の西側から飯泉観音にお参りする際、橋銭1銭を払ったとのことです。渡し人足が生計を立てている下流側の酒匂の渡しと異なり、近世の飯泉では「渡船場あり、舟二艘を置て往来に便す、季秋より初夏に至る迄は、橋を設く」状況で(『風土記稿』)、季節毎に撤去される臨時の橋であったと考えられるわけですが、設置費用を橋銭のかたちで賄っていたことの名残だと思われます。

往年のダルマ市の様子は、俳人でもあり随筆家でもある立木先生の名文の右に出るものはないでしょう。

 「ちょうどこのころになると、足柄の平野に名物の空っ風がピューピュー吹きはじめた。御縁日にはダルマ市が立った。黒壗の小川を渡ったあたりから、道の両側にずらりと露店が並び、仁王門の左右にはきまって、正月用の神棚やエビス大黒をあきなう店が客を呼んでいた。来年の暦売り、独楽、羽子板、カルタ、双六、それから豪華な繭玉屋、この御縁日は大歳の市もかねていたのである。」

「戦後しばらくの間、飯泉の御縁日も、このダルマ市もさびれていた。しかし観音堂も解体修理され、仁王門も四脚門も、さらに大岡実氏の設計した大日堂もすべて新装がなった。境内は広々と整い露天商の人々も年々増加してきて、近年の賑わいは戦前の姿を取り戻しつつある。」(立木前掲『小田原史跡めぐり』)

 今後人口の減少が加速化するこの街小田原にあって、ダルマ市もまた変化していくことでしょう。来年が良い年でありますように、来年がどうかどうか、良い年でありますように。


追記:
平塚市博物館のHP「発見!ひらつかの民俗 第5回」は飯泉観音だるま市をとりあげていますが(2009年の取材に基づく)、売られているダルマの大半は平塚で作られている相州ダルマとのこと。どこの地方でも地元のダルマを買っていく傾向があるとのことで、飯泉では30軒ほどあるダルマ商のうち、相州ダルマ以外をあつかっているのは2軒のみとのことでした。


1
現代会津の玩具である「起き上がり小法師」は形態も、また正月に販売されることでもダルマとの類似度が高いものです(Wikipedia「起き上がり小法師」201112月参照)。ただし、下記のような「二人大名」中のセリフにおける起き上がり小法師の扱いなどから、本当に現代のようなダルマの類似品だったかは、議論の余地があるかもしれません。

「京に 京に はやる起き上がり小法師
殿だに見れば 殿だに見れば つい転ぶ つい転ぶ」
             (小学館2000年『日本古典文学全集 狂言集』)

彼らはまず第一に、転びやすい存在なのです。

2
毎月18日は一般に観音の縁日とされます。6月・12月が市日となるのは、むしろそれぞれの一日(61/ムケの朔日 121/カワビタリ朔日)が正月とならび物忌としての水神祭との関わりでとらえられないか、と酒匂川の渡し場にほど近く、かって補陀洛山を名乗っていたとされる飯泉観音の立地から推測します。

3
全国のダルマ市からの類推ですが、着想の初出は別に先行があるようです。
参照:平塚市博物館HP「発見!平塚の民俗」第6回麻生不動のだるま市

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