2011年12月26日月曜日

エビデンスを作成する主体と利用する主体の分離

帰納的推論からより有益な結論を導き出すためには、根拠となるエビデンスを利用するにあたって、その作成者と利用者が異なっていることが、本来は望ましいでしょう。

上の文章は、ガイドラインの作成にあたって利益相反を意識するようになりつつある昨今の臨床医学を考えると、更にその先の理想論のように思われます。ある疾病の治療にあたってA製薬の薬が本当に勧められるか評価したいときに、根拠となるデータ、エビデンスの作成にA製薬自身が強く関わっていると聞いたら、第3者であれば眉唾物にしか話を聞かないでしょう。しかし、一昔前まではそのような研究を利用せざるを得なかったのが実情ですし、現状でも一定の影響は抜きがたくあるといわざるをえないように思われます。優れた研究者は優れた臨床家でもあることが、少なくとも「建前」としてはれっきとして存在する医学において、臨床家自身の研究は勿論ガイドラインの作成者自身もその薬を治療に使う以上、かってはstudyの立案・計画、場合によっては評価まで製薬会社の影響があったことは否定できないでしょう。かって一定の根拠をもって公的に認可され、長いこと販売されてきた薬剤が近年になり、「効果が否定された」という判断のもと使用されなくなった、という例は、残念ながら稀な例とはいえません。

この作成者と利用者の分離は、外の学問体系から考えるともう少し明瞭になるように思われます。例えば、歴史学においては学説の根拠となる史料の作成者は現代史を除き、学説の提唱者と時代的に分離されていて、特殊な状況以外では利益相反を議論される余地はありません。また学説の提唱が特定の利益を誘導するかどうかも、一部を除いて議論する必要はあまり無いように思われます(注1)。同じ現代を扱うにしても、司法は警察・検察と裁判所を分離する努力を行っていますが、医学ではそこまで徹底した分離は意識されていないのではないでしょうか。

ささいな問題では全くないことは、冤罪事件の社会的重大性や、歴史における注1のような例外が複雑な様相を呈することが多いことを考えればご理解いただけると思います。自分の理屈の中にいると簡単にみえる結論が、外からは実はそうではない(注2)。治療方針のエビデンスに基づいたガイドライン化を今後進める場合、結論の限界にどの程度自覚的になって治療を進められるかは、臨床家各自にとっても喫緊の課題だと思います。、、、というのも、「学会」でつくられた「ガイドライン」に基づいた治療、という言説には、本来的にM.フーコーがいうところの権力がつきまといます。EBM導入当初の言説として、EBMは治療の可能性を制限するものとはならない、という論調がかってありましたが(EBMジャーナル創刊当初の論考だったと思います)、現実にはガイドラインは「正解へ導く海図」としてだけで無く、患者の「無知を罰する武器」としての側面を期待する利用者が増えてきているような気がしてなりません。

注1 例外として考えないといけない一例が、結論の要素中に、国籍や性別、宗教など、研究者本人の属性に関わることが含まれる場合でしょう。

注2 明治前半において伝統医学よりも西洋医学が優れているとの言説は多数なされましたが、当時の新聞広告にみる薬方で現在にまで至るものがどれほどか、といえばきわめてわずかでしょう。それをもって不断の学問の進展を言い募るとするならば、それはあまりにも楽観的だと言いたくなるのは私だけでしょうか。

2011年12月17日土曜日

お観音さんのだるま市(2)

 、、、ここでちょっと寄り道しましょう。ユズリハは学名Daphniphyllum macropodum Miq.トウダイグサ科ユズリハ属の常緑高木で、西日本から半島南部・中国の山地に分布。枝先に集まって互生する、大柄な長楕円形の葉が特徴的です(牧野富太郎『原色牧野植物大図鑑』)。花は5-6月、実は晩秋ですが、新葉と旧葉の入れ替わる様が特徴的であるために縁起物とされ、「歳首ノ賀具トス」(『大和本草』)「都鄙正月鑑餈(カガミモチ)及門戸之飾用」(『和漢三才図絵』)のように、正月に葉を飾り物として使いました。小田原においても前掲西海氏の論考で下記のような記載を認めます。
「(正月の)オカザリの中心は歳神、大神宮、恵比須でこれらには、うら白、ゆずり葉、橙などをつるした。」
正月は、まさにゆずり葉に乗ってダルマ市にやってくるのです。

やはり西海氏の聞き取り調査(西海前掲1988)では、明治40年前後まで酒匂川の西側から飯泉観音にお参りする際、橋銭1銭を払ったとのことです。渡し人足が生計を立てている下流側の酒匂の渡しと異なり、近世の飯泉では「渡船場あり、舟二艘を置て往来に便す、季秋より初夏に至る迄は、橋を設く」状況で(『風土記稿』)、季節毎に撤去される臨時の橋であったと考えられるわけですが、設置費用を橋銭のかたちで賄っていたことの名残だと思われます。

往年のダルマ市の様子は、俳人でもあり随筆家でもある立木先生の名文の右に出るものはないでしょう。

 「ちょうどこのころになると、足柄の平野に名物の空っ風がピューピュー吹きはじめた。御縁日にはダルマ市が立った。黒壗の小川を渡ったあたりから、道の両側にずらりと露店が並び、仁王門の左右にはきまって、正月用の神棚やエビス大黒をあきなう店が客を呼んでいた。来年の暦売り、独楽、羽子板、カルタ、双六、それから豪華な繭玉屋、この御縁日は大歳の市もかねていたのである。」

「戦後しばらくの間、飯泉の御縁日も、このダルマ市もさびれていた。しかし観音堂も解体修理され、仁王門も四脚門も、さらに大岡実氏の設計した大日堂もすべて新装がなった。境内は広々と整い露天商の人々も年々増加してきて、近年の賑わいは戦前の姿を取り戻しつつある。」(立木前掲『小田原史跡めぐり』)

 今後人口の減少が加速化するこの街小田原にあって、ダルマ市もまた変化していくことでしょう。来年が良い年でありますように、来年がどうかどうか、良い年でありますように。


追記:
平塚市博物館のHP「発見!ひらつかの民俗 第5回」は飯泉観音だるま市をとりあげていますが(2009年の取材に基づく)、売られているダルマの大半は平塚で作られている相州ダルマとのこと。どこの地方でも地元のダルマを買っていく傾向があるとのことで、飯泉では30軒ほどあるダルマ商のうち、相州ダルマ以外をあつかっているのは2軒のみとのことでした。


1
現代会津の玩具である「起き上がり小法師」は形態も、また正月に販売されることでもダルマとの類似度が高いものです(Wikipedia「起き上がり小法師」201112月参照)。ただし、下記のような「二人大名」中のセリフにおける起き上がり小法師の扱いなどから、本当に現代のようなダルマの類似品だったかは、議論の余地があるかもしれません。

「京に 京に はやる起き上がり小法師
殿だに見れば 殿だに見れば つい転ぶ つい転ぶ」
             (小学館2000年『日本古典文学全集 狂言集』)

彼らはまず第一に、転びやすい存在なのです。

2
毎月18日は一般に観音の縁日とされます。6月・12月が市日となるのは、むしろそれぞれの一日(61/ムケの朔日 121/カワビタリ朔日)が正月とならび物忌としての水神祭との関わりでとらえられないか、と酒匂川の渡し場にほど近く、かって補陀洛山を名乗っていたとされる飯泉観音の立地から推測します。

3
全国のダルマ市からの類推ですが、着想の初出は別に先行があるようです。
参照:平塚市博物館HP「発見!平塚の民俗」第6回麻生不動のだるま市

お観音さんのだるま市(1)

今日明日は飯泉観音のダルマ市です。近辺では冬の風物詩として長く親しまれ、小田原から他所に出た人にとっても懐かしい思い出ではないでしょうか。 

達磨(だるま 菩提達磨ボディダルマ)は禅宗の初祖として知られる、中国南北朝時代の僧侶のこと。面壁9年の座禅で四肢を失ったとの伝説があり、室町時代に伝来した酒席の玩具「不倒翁」が禅宗の広がりとともに江戸時代にだるまの座禅像に置き換えられた、というのが定説です(斎藤良輔1969「だるま」『大日本百科事典』小学館)。「不倒翁」の詳細が不明ですが、そこから室町時代には「起き上がり小法師」が派生、狂言「二人大名」でも取り上げられる一般的な存在になります(注1)。『日葡辞書』で「Coboxi小法師」はBonzinho、即ち小さいBonzo(坊主)、またはMenino rapado剃髪している子供、を意味します(岩波書店1960年『日葡辞書』)。外見的にも「不倒翁」から「だるま」までにはいくつかのプロセスを経ていることを推測すべきでしょう。山田徳兵衛1975「だるま」(旺文社『学芸百科事典』)ではだるま意匠の採用が江戸中期、幕末には類似玩具はダルマでほぼしめられるようになるとのことです(1830年成立の『嬉遊笑覧』では「達磨を翫物とするも近き事にハ非ず」とあり、文政年間には由来が既に不明瞭になっていたようです:都丸十九一1971「だるま」『日本民俗事典』)。

立木望隆1976『小田原史跡めぐり』では飯泉観音ダルマ市の由来を「四百年も昔の永禄のころからすでに始まっていたという。」としています(残念ながら出典が記載されていません)。戦国時代まっただ中である永禄年間で、市で売買されるほどにダルマが起き上がり小法師として定着していたとは、これまで述べてきたことからは考えがたいものがあります。また『新編相模国風土記稿』(1841年:『大日本地誌体系』本参照)足柄下郡巻之十五成田庄飯泉村観音堂の項でも、「毎年正月六月十二月の十八日(注2)には境内に市ありて、時用の物を交易す」と記載され、歳の市が他の市より特筆されているわけでも、またダルマが主体の記載になっているわけでもありません。やはり『風土記稿』で、永禄51562)年12月に飯泉山へ北条氏からだされた法度が虎朱印状として残っており、上記伝承は飯泉観音自体の重要な画期とダルマ市が混同しての結果とも思われます。いずれにせよ民間に流布した観音信仰・不動信仰は教義のためかダルマ市の母体となっていることが多いようで(注3)、平安朝弘仁仏とされる十一面観音を据える観音堂の行事として、必然的に現代にいたったものでしょう(ちなみに同寺が千代にあったころの山号とされる「補陀洛」は南海にある観音の住まう処に由来します)。

『神奈川県の歴史散歩下』(山川出版社1987年)の「飯泉観音」より:
「毎年暮の121718日の歳の市は関東初のだるま市として大変なにぎわいをみせる。この日以降、正月の準備を始めるという。」

 飯泉で始まっただるま市はその後関東各地で開かれ、翌年33日武蔵国深大寺でトリを迎える、というのが一般の説明。「飯泉の歳の市が終ると市内ではいよいよ正月準備に追い立てられるような気がするとよくいわれる」(西海賢ニ1988「小田原民俗小誌(1)」『おだわら-歴史と文化-2号)。明治生まれの古老が子供の頃の童歌で、下記がよく紹介されます。

お正月がござった

どこまでござった

飯泉までござった

何に乗ってござった

ゆずり葉にのって

ゆずりゆずりござった

            (立木前掲『小田原史跡めぐり』より)

2011年12月11日日曜日

学会の内と外

皆既月食、すごいですね。6歳の息子を起こそうとしたけど、ぐっすりでだめでした。
また今度見ようね。

さて。12月10日朝日、井上正男氏「地震学の敗北 学会や報道の体質改善を」について、思うところを。

「できるはずだと思っていたのに、なぜ東日本大震災のような巨大地震を予測できなかったのか。」
氏は10月、日本地震学会に取材した後、上記のような問題を設定し考察を進めます。氏が整理する問題点は2点。
(1)「学会の体質」
地球物理学や地質学など「門外漢」のいうことに耳を貸さず、内部で相互批判が希薄で「仲良しクラブ」になっている、と。
→「学会はさまざまな学問分野の視点や批判などに門を開き、外国人、若手もとりこんで、研究と議論を活性化させなければならない。」
(2)「科学ジャーナリズムの体質」
批判的に研究成果を吟味することなく、そのまま報道したのがよくない。
→「一定の科学知識と自立的な批判精神を持ちうる人材を育て、地震学者や学会といい緊張関係をもちながら情報を発信し、こんごの防災につなげていくべきだ。」

(1)について、わかりやすく内容を伝えることを意図してか内容がやや煽動的に思われ、結論自体は妥当だと思うのですが、学会内部に届く意見になっているかというと疑問なように思います。外野から推測するに、学会内で批判的応酬をしていない、という内部の自覚はそれほどないのではないでしょうか、どうですか?研究対象をテーマ・方法論ごとに細分化し専門家群を措定する一連の作業が「学会」というギルドの営みです。井上氏のあげられる問題点はむしろ、学会が対象とする体系のもつ暗黙の前提についてのもので、むしろこの点を学会内部で批判的に吟味するのは最初から困難で、当初から外部との接触が必要な部分であると思います。

 他の学問をひきあいに出します。癌患者に対する臨床的アプローチは臨床腫瘍学会が主に扱うところで、外部からみてもそのように認識されますし、また専門医の認定も行っています。新聞記事でも腫瘍専門医が何人いるかなどの記事は日常見かけるところでしょう。患者の立場からみると彼らには治療を行うべきか否かの判断も基準の提供者として、当然期待したいところです。ただし、現在の腫瘍学のロジックからいえば治療を行うかいなかの判断基準は「それによって寿命がのびるか、のびないか」にまとめられてしまいます(臨床科学としての客観化が進んでいる分野ほど、その傾向があります)。患者や家族が判断を行う際は、当然異なるべきですが高次機能病院で説明を受けるほど、当然(そう、至極当然なのです、学問というロジックの内側からみれば。そこに批判的見地の成り立つ余地はわずかです)寿命がのびるかのびないかだけで判断基準を説明され、最終決定が委ねられます。医師個人のヒューマニティなどは別次元で発揮され、この点はある意味きわめて無機的です。

 問題は医師の側がそのことにどの程度自覚的で、かつ患者・家族に提示できるかですが、、、、それこそ自戒をこめつつ、私自身できていないこともけっこうあったように思います。近藤誠氏による一連の化学療法批判の本質は、上記の中にこそあると思います(もっとも、ややこしいのは批判するときの方法論が、グラフやら生存率やら、腫瘍学の土俵にあたかもあがるような形をとるところです)が、それに対し週刊誌に掲載された腫瘍内科医の論考で、それこそ自信たっぷりに近藤氏の方法論で至っていないところを指摘し、だから信用できないのだ、というものがありました。、、、そうではないでしょう。治療方針の決定にNBM(患者・家族のナラティブの重視)が不可欠だとすれば、そこにはRCTとか症例数とか有意差とかでは割り切れない世界があるのは当然です。そのことへの十分な指摘なしには、議論は交差することのない、弁証法的営為のないものになってしまうのではないでしょうか。また、治療を受けたくない、といっている患者に対しきわめて冷たい医師はどこにいっても本っ当に多いのですが(共感できないからであって、相当根の深い問題です)、解決の方策は
本質的には腫瘍学のロジックの外にある話でしょう。

 かってオルテガ・ガセットは『大衆の反逆』で、専門家が専門領域以外では全くの大衆と変わりないことを告発しました。それは実は専門領域のすぐ近くでも(いや、だからこそ)発生するのです。専門家という皮を被ったバーバリアンにならないためには、自分のロジック以外をどう導入するかを考えることが、不可欠です。

2011年12月7日水曜日

エビデンス覚書(2) 広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定する立場

両者の懸隔は狭いようで、広い。、、、ここでいう立場とは、絶対的な立ち位置と、向かおうとするベクトルの二つでそれぞれ考える必要があります

 時代の潮流(その時の、流行り)毎、あるいは学問毎にどちらかが優勢なことはよくあることと思いますが、もうひとつエビデンスに供せるテクストの量が立場を大きく規定するということはありそうです。例えば臨床研究を行う立場(=現代の症例群からよりより診断法・治療法を決定したい、エビデンスを作りたい立場)からは、これから症例を集めるにせよsample sizeが相対的に大きく、それ故により質の良い対象を集めるためにinclusion criteria選択基準、exclusion criteria除外基準の厳密化が顕著です。それに対し、テクストが既に作られていて質・量に限りがある歴史学の場合、同じようにはいきません。

 また法曹畑でもForensic Medicine法医学などは、医学部に付属することに誰も疑問を持ちませんが、このようなテクスト論からいえば臨床医学的な立場と歴史学との中間的なものであることがご理解いただけるのではないでしょうか。

 そうはいっても、行政文書が比較的多数残っている地域・年代の研究者にとり、例えば政治史を試みるものはtext critiqueの方法論が命綱になりますし、その発達こそが近代史学の誕生を導いたその後の反動ではtext critiqueの結果見過ごされた史料の中でも、他のテーマであれば十分歴史学の対象となりうることを指摘した社会史・心性史の流れがあったわけです(他学からみれば両者の違いは立ち位置の違いはわずかで、むしろベクトルの違いなんだな、ということがよく感じられますが)。ミシュレやティエリ、クーランジュに対し史料批判が不十分であるとするセニョボス、ラングロワらの批判が「正統」であることは言を待ちません(注1)。ただしその後の学史的展開を俯瞰するかぎり、歴史学の学問としての拠り所は、エビデンスを狭く取ろうとすることそのものにあるというよりは、エビデンス措定に対する方向性の違い・可能性を常に再識し、研究者の立ち位置を明らかにすることにあったといえないでしょうか。

また、エビデンスを「作る」側と「使う/消費する」側でもベクトルは異なりえます。この場合方向は必ずしも一様な関係ではなく、例えば臨床医学で厳密なエビデンスを求めて対象を狭くとろうとしすぎると、実用の場面ではエビデンスからはみ出た症例が多くなりすぎるということが多々あります。現在克服されつつありますが、非小細胞肺癌に対する治療のエビデンスは体力的に余裕のある70-75歳未満でまず集積が進み、国内でむしろ多数派である高齢者で治療の根拠が弱い、ということがありました(最もこの点は、どのような症例で積極的な治療が勧められないか、ということに対するstudyが組まれない限り不分明な部分が残るように思われます)。逆に対象を広くとったために、よくわからないぼけた結果になってしまうこともあります。抗癌剤のゲフィチニブはかって非小細胞肺癌症例全体を対象としたstudyで有意な治療効果をみいだせませんでしたが、2010年以降EGFR変異の有無・種類で対象をしぼるとかなり異なる結果になることがはっきりしつつあります。

注1 中野知律1999「『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書」『一橋論叢』121(3)
「伝説に起源を持つ主張は、いかなるものであれ、拒否することがルールである」
(セニョボス・ラングロワ1898『歴史学研究入門』より、中野訳)
他フュステル・ド・クーランジュ『古代都市』(原著1864年:1995年邦訳)参照

2011年12月3日土曜日

関東大震災時小田原近辺での津波災害について (2)

うっかり書き落としましたが、おそらくはかなりのプレッシャーがあったであろう中、津波避難場所をまがりなりにも折衝し、まとめ上げた行政にはまず、市民として率直に感謝いたします。
(やらせじゃないですよ、断っときますが)

酒匂川西岸など、空白域は依然あるように思います。2階建てであってもRC造で標高が比較的高ければ検討するなど、現場に応じた柔軟な対応で粘り強い折衝を続けていただければと存じます。

2011年12月2日金曜日

関東大震災時小田原近辺での津波災害について

市から配布されたばかりの『広報おだわら』2011年12月1日号では、切迫性が高いとされる神奈川県西部地震において小田原市内の最大浸水深を3.3mと評価。海抜10m以下を含む地域について津波対策を検討しているとし、市内の津波避難ビル一覧と地図を掲載しています(防災対策課・地域政策課「津波から逃げる!!」:注1)。津波避難場所の選定にあたり困難があったことはこれまで各新聞でもとりあげられたところですが(注2)、実際『小田原市史別編自然』2001年を繙くと、関東大地震の際、相模湾他で津波があったとの記載があります。実態はどうだったのでしょうか。

出版されたばかりの朝日新聞出版『完全復刻アサヒグラフ関東大震災・昭和三陸大津波』2011年は過去の罹災直後の文章・写真が多数掲載され、各地域での災害対策を行政だけではなく皆で考えていくという視点にとって、極めて示唆に富んだ刊行と思われます。授業での課題研究など最適ではないでしょうか。ここでは、津波についての記載を抜き出しましょう。

「伊豆半島熱海 、、、同地方は二丈余(6m強:久保田注)の大海嘯オオツナミ二度も襲来し惨害甚だしきものであった。海嘯のためさらはれたもの百五十余戸、、、」
「伊東 伊東町は海嘯の被害が最も甚だしく海岸より約五町(約5ha?約550m?)の区域は海嘯のため浸水し住家五十余戸は影も形もとどめず。八十余トンの帆船は六丁余(約660m)を陸地に乗り上げて、、、」(以上65頁)

波高について、『理科年表平成23年』に熱海12m、相浜(千葉県館山)9mとの記載がありますが、駆け上がったところではそこまで上がったということでしょうか(注3)。地理的範囲については、先のアサヒグラフ3頁に津波被害の概況が地図として表現されていて、真鶴以南から伊東よりやや南方において被害が大きかったようです。よくみると相模湾対側の鎌倉近辺にも津波の表現がありますが、ネットでも『知られざる鎌倉探索』で波高7-8mと記載される津波の被害が紹介されています(浪川幹夫氏2004年)。

小田原近辺は津波の表示が目立ってはいません。68頁の記事でも「地震、火災、海嘯の三方攻撃に会う」との記載がありますが、津波事態の記載はほとんどありません。中野敬次郎1968『小田原近代百年史』でも、元禄地震の海嘯についてこそコメントしているものの、関東大震災は建造物倒壊や火災・山津波などの記載が主で津波の記載を認めないようです。
他の被害が大きすぎて津波情報がマスクされてしまっているということも、皆無ではないでしょう。「全く無くなった小田原 一望荒涼として死傷一万一千、、、その惨状は言語に絶している、、、全町の三分の二は焦土と化した。」明治時代の高潮被害は中野氏が『百年史』で特記するところであり、リスクを考える必要は確かにありそうなのですが、、、。寡聞なだけかもしれませんが、堆積状況から過去の津波を復元する調査が市内でも活発に報告されることを、切に望む次第です。

関東大震災以前の地震については、前掲『小田原市史別編自然』に寛永地震(熱海・宇佐美)、元禄地震(相模湾他)で津波ありの記載があります。ディアナ号の損壊で著名な安政地震でも被害があり、これらについてネットでは、羽鳥徳太郎2006「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東、安政東海津波とその他の津波の遡上状況」が検索可能です(注4)。元禄地震では上総湊-館山間で5-10m、三浦市間口で6-8m。安政東海地震で浦賀3m、鴨川3-4mとのこと。また、書籍では目を通せていませんが渡辺偉夫1998『日本被害津波総覧第2版』が基本文献のようですね。

注1
タウンニュース小田原版2011年11月26日号「避難ビルに8000人受け入れ」
標高、避難場所など、小田原市地理情報システムNAVI-Oナビ・オダワラでネット検索ができるようになっています。
http://www2.wagamachi-guide.com/navi-odawara/top/select.asp?dtp=17
注2 
神奈川新聞カナロコ2011年10月15日配信「小田原市の津波避難ビル指定は半年で14棟にとどまる、自前の整備も必要」
注3 
2012年版の理科年表は大震災も踏まえ、自然災害に多くのページを割いているようです。
注4
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P037-045.pdf