2011年11月30日水曜日

エビデンス、という不安

今日のNHKクローズアップ現代は裁判の再審開始を題材としてエビデンスの開示が話題になっていました。Wikipediaで「エビデンス」を検索すると以下のような説明がなされており、なるほどな、と思わされます。

「エビデンスは、証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語 "evidence" に由来する、外来の日本語。一般用語として使われることは少なく、多くは、以下に示す分野における学術用語や業界用語としてそれぞれに異なる意味合いで使われている。」(2011年11月30日検索)

決して国内だけの趨勢ではなく、背景として米国でも同一領域の同じ対象に対してはやはり「evidence」と呼んでいることに注意が必要です(あくまで向こうが本家であって、こちらでこなれていない部分が日本流になっている、ということではないでしょうか)が、確かに学問間でtranslationalにはエビデンスという用語の定義の詳細を詰めているわけではないように思います。その意味で外来の日本語、というよりは、現時点でジャーゴンとしての側面をもう少し強調した方がよさそうです。

ウィキペディアで取り上げられたような医学領域、番組で扱われた法曹、そして歴史学は、いずれも資料からの実証・帰納的手続きが重視される領域で、本質的に「エビデンス」についての考察が有意義な領域であると考えます。医学におけるEBM(Evidence Based Medicine)はここ十数年で一般メディアでも見かけるようになりました(1999年に創刊した邦文誌EBMジャーナルは概念の一定度の普及を理由とし2008年に休刊となったことが象徴的です)。やはり近年普遍化してきた診断・治療のガイドライン化(臨床行為の客観化を目指す潮流の中で、診療記録の客観化を目的としたPOS Problem Oriented Systemと並び立つ2本柱の一つでしょう。診療行為を行う医師の客観的評価システムとして期待されているのが学会による専門医制度と捉えられます:注1)と「そりのあう」考え方であり、用語としてのEBMを印籠か錦の御旗のように掲げた言動は、21世紀以降医療の現場ではかなりみかけるようになっています(注2)。
「エビデンス」を鍵概念とした20世紀末から現在までの医学などでの思想潮流の底にあるのは、「客観化」です。実証的態度にとってこれまで自明の存在であった帰納的手法への懐疑と、更なる方法論的進展、とひとまずは表現できるでしょう。

①material object物質資料ないし外界(実態として実在するものとして扱う前提が存在します)をevidenceとして扱うためのtext化(医学の場合はPOS、歴史学においては史料批判)、②エビデンスとしてのtextを作成する主体と利用する主体の分離、③エビデンスをより広く集めようとする立場と狭く、質の良いものに限定しようとする立場、④エビデンス利用にあたっての情報リテラシーと、その格差からくる権力構造の発生(エビデンスは誰のものか)など、本質的に上記諸学問間で比較検討できるテーマは多いのではないでしょうか。本ブログの根っこに関わる話ですので、時間をかけて各テーマごとに書いていければな、と思います。
ぶっちゃけていってしまえば、医学の中だけでみた「エビデンス」は他所からみたら違ってみえるかもよ、ってことです。いきなり生薬の話から始まって、あやしいブログだなあ、という印象を持たれたかもしれませんが、さらに奇奇怪怪なものにしてしまうこと必定でしょうか?

注1 POSは1968年米国人医師RLウィードによる提唱。
注2 ブログ『内科開業医のお勉強日記』中の記事「EBMジャーナル最終号:EBMの行く末への不安」2008年10月11日は、EBM内側からの現状の批判的直観といえましょう。エビデンスを道具として業をたてていく身として、このような直観は重視すべきことなのです。

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