2011年11月9日水曜日

古地図紹介

2011年11月3日神保町で購入した古地図について考証したいと思います。この場合写真が無いと様にならないのですが、古書・古地図取扱いのMurray Hudson社のHPで参照することが可能なようですので、関心がある方は参照ください。

さて、購入した古地図は1861年刊行の「Stanford日本図」の複製です。金額が1300円台と手頃で、インテリアになるかな、ということで購入しました。版面作成者はJ &C Walker(図面右下に表記あり)。LondonのEdward Stanford刊行の複製ですが、上にあげたMH社のHPをみると、Walkerの作成した同じ版面は1835年が最初にあるようで、Stnford版自体再刷のようです。地図の特徴を思いつくままに列挙していきましょう。

1、販売されている他の版では本州他各島の海岸線は手書きで色線が縁どられていますが(本州が黄色で九州が水色など、確認できる3枚とも同じに塗られており、個人の趣味ではなさそうです)、この地図にはそれがありません。販売にあたっての完成品であったか、疑問な点があります。
開港地と重要地を指すと思われるNagasaki長崎、Osaka大坂、MEACO都、Kanagawa神奈川、YEDO江戸、Hakodate箱館は赤線で囲まれています。同じ1861年の別図では塗り方が異なり、これも手書きと思われます。

2、初版が1835年であることに矛盾しませんが、拡大図として江戸や京都ではなく長崎と根室・国後を選んでおり、また描かれている街道が長崎-江戸の1本のみです。
(この点、1861年刊行時点では古きに失しているのかもしれません)

3、1821年完成の伊能図が海外に紹介されたのは1840年、Sieboldがオランダで刊行したものが最初とされます(Karte vom Japanischen Reiche 石版着色:織田武雄1974『地図の歴史日本篇』)。本図では本州北端から北海道は含まれていませんが、1851年には北海道全体も含めたAtlas von Land-und Seekarten vom Japanische Reicheが刊行されています。イギリスに伊能図が認知されたのは文久元(1861)年アクテオン号来航以降であって、オランダより遅いとの評価がなされていますが、実際アメリカでも1850年代には伊能図系列の地図が出版されているのに(Lowry日本図1853年、Johnson's Japan石版1855年:ただし前者は高橋景保1809年日本辺界略図の完全な写しで、Siebold1832『日本』由来ということになります)、イギリスでは1861年になってもこのような図面が刊行されていたということになり、文化の相互交渉の点で大変興味深いと思われます。織田氏の考察を参照するとロシア・クルーゼンシュテルンの原図を使用して北海道も含めた自前の地図を作成した後、そこからなかなか離れられなかったとのことですが、、、。実際、1820年代までの西欧の日本地図はかたち、という意味ではそれ以前のものと似たりよったりで、それ以降30年ほどの間に劇的な進歩がみられたということになりますね。本地図の特徴を一言でいえば、「重要な点のみ西欧が測量し、それ以外は博物学的に情報を集めて作成した」、作成時点においては最新と信じられ、その後短期間で情報が古びていったもの、といえるでしょう。

4、さて、以上の点に注意して地図をくわしくみていきましょう。おおよその外形・位置関係は測量されているので、大まかな位置関係はよさそうですが、九州(特に長崎周辺以外)や四国、中国西半、房総・伊豆半島など、いびつな形をしています。対馬・五島・隠岐はかなり強調され、特に隠岐は出典が『海東諸国記』か、と思わせるような「丸っ」です。都市名は各国毎に数か所表記され(Sagani相模ではOdawara小田原とUraga浦賀)、河川についても大きなものは名称が書かれ(R. sinaogawa信濃川)、また相模でも相模川と酒匂川で矛盾しないところに2本描かれるなど、出典自体はある程度しっかりしていそうです。桜島は九州と陸続きになっておらず、湖は琵琶湖・霞ヶ浦・サロマ湖・浜名湖・宍道湖など大きなもの以外に諏訪湖や猪苗代湖らしきものも描かれています。知多半島・渥美半島、志賀島、児島半島なども意識されていて、鎖国中の制作にしてこの水準はたいしたものだ、と素直に思わされます。山岳ではM. Fouzi富士山が12000フィートと高さの記載あり。奥羽山脈、北アルプス・南アルプス、関東山地は強調されていて、他の山岳表現もある程度蓋然性がありそうですが、その一方中国山地・四国山地・九州山地などは表記されていません。海岸線が全般に起伏豊かに表現され、実際のリアス式海岸地帯とは区別がつきませんが、新潟平野部についてはむしろ当時低湿な氾濫原が広がっていたことがわかる表記ともいえます(加賀の海岸線も同様ですが、氾濫原はどうだったのでしょうか)。

5、YESO蝦夷地は内陸の表記に乏しく、当時の日本からの情報を反映しているようです。Hakodate箱館人口50000、R. isikari石狩川やVolcano B.噴火湾、Okosir奥尻島、C. Soya宗谷岬の記載あり、他地名については、西欧人の命名者由来と思われる地名が散見されます(C.Froen襟裳岬)。

6、NIPHON ISLAND本州の地名は概ね日本語由来ですが、房総半島野島崎?がC. Kingであるなど、100%日本語というわけでもありません。日本語の発音表記も苦労の跡がみられますが、そのせいか鹿島がKosima、相模がSaganiなど、単純な間違いも多々あります。荒川がR. Toda戸田川と表記。また琵琶湖はL. Oittz即ち大津湖と表記。

7、16世紀のテイセラ図以来、地名におけるハ行の表記はFでつづられ、当時の発音に対応していたわけですが、1861年のこの地図でもそれが続いています(Fammamats浜松、Fisen肥前、Farima播磨)。安田章氏(「日本語の近世」『日本の近世1』1991年)をみると「は」行を上下の唇をこすらせて発音していたのは江戸時代初期のことで、1652年刊行の伝統芸能についての史料で「はひふへほ 唇あわせす」との記載があるようです。ただし文語性の強い単語ではそうでもなかったようで、Stanford日本図の記載が実際の発音由来なのか、以前の資料を参照したためかは確定しがたいように思われます。
、、、ただしそこをあえてつっこみましょう。地図中でHが使われているのが2か所。うち1か所は幕末に注目されるようになった箱館であり、もう1か所は播磨灘Harima Nadaです。このうち後者は国名Farimaと同一語根と認識されなかった故の錯誤と思われます。やはり当時の発音はHで、Fを使っているのは昔の表記を引き写しているようにおもわれますが、いかがでしょうか?

、、、、古地図は本当にみていて飽きませんね。今後とも機会があれば別の地図で考証をこころみてみたいですね。

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