2011年11月29日火曜日

近世小田原の医師

近世小田原藩は当初から家中に医師をかかえていました。慶安年間から安政年間にいたる小田原藩の諸分限帳のうち、初めは13名(慶安年間か・「(大久保家藩士録)」板倉文書)もいた医師は1724年には8名(「順席帳」個人蔵)となり、幕末1858年には6名(「順席帳」小田原有信会文庫)と徐々に減っていきます(土井浩1999「大久保氏の家臣団構成」『小田原市史通史編近世』)。記載される医者・医師・奥医師らは禄を伴う家の「職」であり、天明二年の家中法度では町医の二男三男を養子で貰うことについて「不苦候」とこれを認めていますが、それはこの職業が親から子へ継承されることが前提であったからこそです(「吉岡手控」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995年)。三都から離れた小田原の医療状況は良好とは言い難かったようで、1633年時の小田原藩主稲葉正勝が吐血(注1)した折、徳川家光は彼を江戸へわざわざ呼び戻しています(下重清1999「稲葉正勝の小田原入封」『小田原市史通史編近世』)。

量より質、というわけでもないのでしょうが、19世紀に藩校ができると医学教育もカリキュラムに含まれます。山崎 佐(やまざき たすく)氏の著作『各藩医学教育の展望』(1955年国土社)には小田原藩のこととして、以下のような記載があります。

「文政五年(西紀一八二二)藩校諸稽古所(又集成館とも云う)を創立し、年給銀二枚で医術教師二名を置いて、漢方医学を教えた。明治二年六月文武館と改称し、年給四両で医学教師一名を置いた。洋医学志望者は、藩費で他国へ遊学せしめ、また一般に自費遊学を許した。」



天保年間作成とされる「小田原城図」には集成館校庭に「ヲヤクエン(御薬園)」があり、まがりなりにも一定度整った内容であったとは思われます(注2:高田稔1999「人びとの教育と学問」『小田原市史通史編近世』)。ただし、文政五年の御定目によれば、諸稽古所の講義は朱子学が基本とし、「材性は人々同しからさる故、余力ある輩は聖経賢伝之外史子等より本朝の書迄も博く渉り、世道人心に関るは勿論の義、兵備・医業・水利・銭穀之事迄も心懸け、有用の人となるべき志を立可相励事、」と医学はあくまで+αの位置づけでした(『小田原市史 史料編近世Ⅰ』収載史料No262)。

1863年、医学学頭富田元道の嫡子晩斎は、大坂の適塾へ入門し蘭学を修めます。文政から安政年間にかけ市川隆甫・市河魯庵・市河玄智らはいずれも蘭学を習得し、魯庵は藩校の医学学頭にまでなっています(高田前掲1999)。蘭学の伝統は明治にまでおよび、明治二年の藩校改革では、文武館の稽古日で医学は月3日、九つ(正午)からと定められ、カリキュラムが作成されつつありました(片岡文書「(小田原藩幕末重役手控)」『小田原市史史料編近世Ⅰ』1995)。試みは廃藩置県で途絶えるわけですが、『明治小田原町誌』では1876年の小田原の医師は11戸。1885年の『皇国地誌残稿』でも神奈川県内の各村に数軒ずつ医者がいたとのことで(森武麿2001「殖産興業と地租改正」『小田原市史通史編近現代』:注3)、前代からの苦闘の結実のように思われます。

注1 消化管領域からの出血が吐き出される吐血と、肺・気管支からの出血である喀血は現代でもしばしば混同されます。正勝は30代でありながらその後半年の経過で痰など気道症状、るい痩などをみせ1634年早々には他界しており、結核からの喀血は有力な鑑別に挙げられるかと思われます。

注2 上田三平1930『日本薬園史の研究』では小田原藩の記載を認めません(長崎大学薬学部編2000『出島のくすり』)。敷地も小さく薬学史上の意義は限定的ですが、地方史の研究成果により分布図上の空白が埋まる貴重な成果と考え、高田氏の業績を照会する次第です。

注3 1874年制定の医制では旧来からの漢方医にも移行措置として仮免状が交付されており、1876年の医師数は漢方・蘭方双方の医師を含んだ数値です(島崎謙治2011『日本の医療』)。

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