2011年11月22日火曜日

漢方生薬考 ヨモギ属(11)


モグサを日本産ヨモギへあてることが古来より安定していたためか、近世前期・中期の薬種同定事業、朝鮮との薬種貿易でも「艾」は対象にはなりません(田代前掲1999)。輸入する必要のある薬種とは扱われず、かえって17世紀に入ってからモグサの国内生産・流通を確認できる文書が出現してきます。まず名産地として、1691年出版の『日本賀濃子』には近江名物として「伊吹蓬艾」が挙げられています(もう一つの名産地として知られる下野標茅原は1697年『日本食鑑』に近江産に次ぐ扱いででてきます)。貝原益軒1708『大和本草』では「江州胆吹山ニ甚多シ其麓ノ里春照ナトノ民家ニ多クウル」との記載で地元農家の小規模販売の様相ですが(1754年の『日本山海名物図絵』でも「山下の民家に(中略)もぐさとて売之」と同様のニュアンスを認めます)、その後近松門左衛門作『椛狩剣本地』(正徳41714)年)では下記のような口上があり、町への艾売り進出が窺われます。

「旅人衆が大勢門に立てじゃ。おっとがてんと見世先にすすみ出、いぶきもぐさの功能を商ひ口にぞのべにける。凡諸国に蓬おほしと申せ共もろこしにては蘄州四明が洞。我朝にては当国江州伊吹山周の幽王の吉例を以て、三月三日に刈始五月五日の露を請日にさらし月にほし、(中略)此もぐさのゐとくには時をゑらはず日をきらはず思ひ立つ日に人神なし。(中略)くすし入らずの御重宝捨るとおもふて只六銭。」

さらに踏み込んだ生産・流通体制もあり、大垣藩は17世紀前半からもぐさの生産流通管理を行っていました。揖斐郡春日村文書には「もぐさ20726日納 寛永131636)年より上納」「伊吹もぐさ3俵(中略)天和21682)年肥後守様代より上納」などの記載があり、大垣藩は春日村など揖斐郡西山筋の他、同郡北山筋(坂内村、藤橋村、久瀬村)からも「もくさ」上納を受けており(宮川家文書「北山筋村々古来書御帳」1700年:寛永161639)年より山年貢として上納開始)、もぐさ生産の藩による管理が一定の水準に達していたものと思われます。孤松子1685『京羽二重』は当時の町案内ですが、室町綾小路と三条白川橋にもぐさ屋を2軒認め、そのような生産物の集約が背景にあるものと思われます。そのような市場競争の結果、香川修庵1729『一本堂薬選』では看板に伊吹艾とあっても実際に売られているのは皆美濃、越前の産であることが指摘されています(国香寛1839『灸功編』でも類似の指摘を認めます:織田1998では近江での生産例を示し、本表現には誇張が含まれていることを示唆しました)。ただし越前もその後産地として衰退していったようで、1836年の冥加銀半減願(斉藤寿々子家文書・大野歴史民俗資料館蔵)ではヨモギの産出減とモグサ業者の減少が描かれています(明治6年の内務省勧業寮物産調査では富山が生産量首位で福井は2-3位。滋賀・岐阜は産量の点で両県に全く及びません)。

東洞1771『薬徴』では内服は芎帰膠艾湯のみの記載で、弁誤で灸法についての議論(即ち、病状の寒熱を評価したうえで灸法の適否を決定せよ)を展開しています。品考では「売るところのものは他物を雑ゆ。正すべし。」との記載があります。

蘭山1802『啓蒙』艾ではヨモギの他モチグサ・フツ・ブツなど諸名称を訓じます(注8)が、淡路モグサを称揚し、近江伊吹山産のものをヌマヨモギ、蔞蒿A. selengensisであって艾ではないとしました(宗伯『古方薬議』もこの説を支持しています)。現代日本ではむしろタカヨモギと訓じられることの多い蔞蒿ですが、牧野1982ではこれをオオヨモギにあてています。蘭山の観察は「苗ノ高サ一丈余ニシテ葉モ長大ニシテ尺ニスギ、(中略)香気少クシテ」とオオヨモギの特徴を的確にとらえており、オオヨモギの分布が近畿までと西限に近いこと、京都在住の蘭山が東方の見慣れないオオヨモギを見てこれをヨモギと異なるものと評価し、かつヨモギより劣る品ととらえたものと思われます。

さて、国産ヨモギを薬種として品考するとき、蘭山のように産地だけではなく種の違いにも目を配る必要があります。貝原益軒が『大和本草』後に書いた『養生訓』(1713年)では、
「名所の産なりとも、取時過ぎて、のび過たるは用ひがたし。他所の産も、地よくして葉うるはしくば、用ゆべし。」
として、成長して大きくなりすぎたものは良くないとの記述になっています。益軒の時点では種が違うというアイデアまで到達していなかったようですが、実は別の品種である、との認識は先行する1680年前後、農作物の生産に深く関わる村役人層の観察に初出があります(古島敏雄校注1977『百姓伝記』)。巻十二中「もぐさを作る事」では、「もぐさ種両種見へたり。」として、一方を「葉の大にしてやう大まかにきれ、」「にほひうすく、にがみもすくなく、ほしてもむにわた少なし。」もう一方を「葉小葉に見へてえうのきるる事こまかなる有。」「にがみ多く、ほしてもむに真(わたカ)多く、にほひふかきやうなり。」と記載。現代植物学におけるヨモギとオオヨモギのこととして、まず間違いないものと思われます。寒川辰清1734『近江與地志略』でも伊吹モグサの製造販売で原料にオオヨモギを使っていた記載があるようで(織田1998)、先述した19世紀蘭山の記載は17世紀後半から18世紀のこのような流れを受けて出てきたものでしょう。飯沼慾斉1856『新訂草木図説』では美濃北部吾北山の山人は「モグサの原料としてオオヨモギを貴ぶが、ヨモギに比べ香味劣る、、、」(織田1998の訳)と記載しており、幕末までにはヨモギ/オオヨモギの弁別はすでに安定したものになっていると評価してよさそうです。
 興味深いのはモグサ主生産地の推移で、近世から現代にかけ(近江・)美濃→越前→越中→越後と移動します(織田1998・織田1999)。このような移動の原因として、織田19981999は北陸でもともと産量が多いことと、冬季の労働力が期待できることを挙げていますが、旧産地衰退の原因としてヨモギに対する高採集圧のもとヨモギ群落が徐々にオオヨモギへ遷移し、その結果薬種に供せなくなることが見逃せないと考えます。
このような過程を経て、現在日本産では上述のようにヨモギA. princeps Pamp.とオオヨモギA. montana Pamp.の葉を乾燥したものをともに正品とします。伊吹山麓の柏原は中山道の宿場町でもあったことから名産品としてのモグサを商う一角が形成され、地方を回る艾売りもいました(落語「亀佐」:HP世紀末亭)。天保14年の同宿における職業記録ではもぐさ屋は9軒。屋号はいずれも亀屋であったようです(HP『旧街道道草ハイク』参照:安藤広重『木曾街道六拾九次之内柏原』にも描かれています)。江戸の艾販売は紋様が同じことから命名された団十郎艾が有名でした(真柳誠2005「江戸のもぐさ屋」『日本医史学雑誌』51(1))。

後記:出典など、織田隆三1998「モグサの研究(10)」全日本鍼灸学会雑誌48(4)、および織田1999「モグサの研究(11)」全日本鍼灸学会雑誌49(2)によるところ大です。
  
注8 
「フツ」はヨモギを指す九州方言で、現在まで至る。琉球方言の「フーチバー」も、「フーチ葉」の義であり、同根と思われる(湯浅浩史2004『植物ごよみ』)。

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