2012年1月25日水曜日

武田の騎馬軍団はありえない?

以下、『新歴史評定』というホームページに2002年6月1日寄稿いたしました記事を再掲載致します。
(軍事史が主でしたが『新歴史評定』には当時様々な疑問・意見が寄せられ、久保田なりに他の方々の意見を励みに勉学に勤しんだことが昨日のように思われます。関係者方々への感謝の意をこめて、また以前論じた内容の再展開が可能になることを念じ、謹んで再掲載させていただければと存じます)


永禄から天正年間の武田軍の装備については手元の『武田軍記』(小林計一郎1965年、人物往来社:朝日文庫より再版)に一覧表を見つけました。
小林氏が作成したのは、永禄5年大井高政宛軍役状より天正6年原伝兵衛宛軍役状までの計11通で、兵員数・乗馬数・槍・弓・鉄砲などの携帯率などが掲載されています。

「こころみにその百分比をとってみると、軍勢百人に対して、騎士12人、(以下略)」(小林前掲1965)

ちなみに同書では、「天正十三年上杉氏軍役帳」から上杉軍の軍勢百人中の騎士数を10人と報告し、「これでみると、上杉軍と武田軍は、だいたい同じような装備を持つ部隊であったらしい」と結んでいます。なおこの「天正十三年」は天正3年の誤記と思われますが、故杉山博氏の『戦国大名』(1974年、中央公論社)にはその軍役帳が一覧表になっています(出典は上杉文書のようですね)。 それでみると兵数1186人に対し馬上112人と、確かに約1割が馬上になっています。

 後北条について、前掲杉山氏に、「元亀3年(1572)正月、宮城氏が着到わりあてをうけたときは、36人の軍兵を要求されている。その内訳は、宮城泰業自身、馬上侍7人、(以下略)」ということが載っています。他にも下記比率の史料があり、どうも兵力中の騎馬率が他よりも高かったような印象があります。

1、弘治2年(1556)伊波大学助らの軍役:56人中馬上12

2、天正10年(1582)富岡秀朝:30人中馬上6

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