2011年10月21日金曜日

「蓬」の由来

「蓬」の項でも述べたとおり、現在国内では牧野氏が述べた如く「蓬」はヨモギを意味しない、とするのが定説といっていいと思います。それ以外の可能性はないでしょうか。
1、牧野説の根拠
 
 「では蓬とは何んだ。蓬とはアガサ科のハハキギ(ホウキギ)すなわち地膚のような植物で、必ずしも単に一種とのみに限られたものではなく、そしてそれが蒙古辺の砂漠地方に熾んに繁茂していて、秋が深けて冬が近づくと、その草が老いて漸次に枯槁し、いわゆる朔北の風に吹かれて根が抜け、その植物の繁多な枝が撓み抱え込んで円くなり、それへ吹き当てる風のために転々としてあたかも車のように広い砂漠原を転がり飛び行くのである。そこでこれを転蓬とも飛蓬ともいっている。」
(牧野『植物一日一題』:青空文庫参照)
 つまり、枯れた後に根が抜けて風に飛ばされるイメージが根拠になっています。このイメージの由来として、『植物一日一題』では出典が4つ挙げられていますが、  その中でも最重要なのは2番目前漢代『説苑』収載の魯哀公の言でしょう。
「秋蓬ハ根本ニ悪シク枝葉ニ美シ、秋風一タビ起レバ根且ツ抜ク」

2、もうひとつの「蓬」
前漢代において、蓬にもうひとつ意味があったことは無視できないと思います。即ち、当時対匈奴の前線であった西域エチナ河付近には多数の烽燧(ホウスイ:烽火台)が残っていますが、出土する木簡に多数の「蓬」字があるのです。

「蓬とは信号用の旗の一種で、昼間の合図に用いられた。燧のショウ(ツチヘンに焦)には『蓬干』と呼ばれる柱が立っており、蓬は滑車と綱でこの旗竿に挙げられた。滑車を『鹿盧』、綱を『蓬策』という」(籾山明1999『漢帝国と辺境社会』)。

「匈人奴昼入殄北塞、挙二蓬、□煩蓬一、燔一積薪。夜入、燔一積薪、挙ショウ(ツチヘンに焦)上離合苣火、(以下略)」
(籾山1999所収EPF16:1文書 文中の□は不鮮明を意味します)
 匈奴来襲の際、昼は「蓬」を挙げ薪を焼き、夜も薪以外にかがり火を朝まで絶やすな、という指示です。「蓬」の形態についても敦煌清水溝の烽燧跡採集の漢簡や『史記』司馬相如列伝に引かれる『漢書音義』に記載があり、籾山氏はそこから「口のまるい筒ないしは籠のような形を想定できるのではないか」としています。そもそも「烽のろし・とぶひ」の字自体『説文』では正字を熢につくっていて、「蓬」字との関連が示唆されるでしょう。「布蓬」「草蓬」という表記もあって材質は一様ではなかったようですが(籾山1999)、仮に「蓬」が特定の植物を示唆するとして、その植物を信号用の旗に使うから「蓬」と呼ぶようになった、可能性は十分注意するに足るものと考えます。

ここで気をつけておきたいのは、「転蓬」「飛蓬」のイメージがこちらからきている可能性も無視できないのではないか、ということです。烽火台の上に掲げられた植物性、かつ円形の「蓬」がとばされたときは、さぞよく転がることでしょう。『説苑』の記載も重視しなければならないのは無論ですが、『説文』の「蒿ナリ」も同じように重視しなければならないと思います。

①<自然に根こそぎ抜けて>転がってしまう植物のイメージがかならずしも必要ないとすれば、②辺境の植物である「蓬」は「転蓬」「飛蓬」を比喩に用いた後代の詩人・官僚にとって、本質的には身近な植物では無いことも考え合わせて、「蓬」はヨモギではないとする論拠もまた確固なものではなくなるはずです。もともと烽火を使うような北方の乾燥地帯ではヨモギ属はどちらかというとよく見かけるはずでもあり、牧野氏のいうようなアカザ科のイメージは、当初からのイメージというよりはむしろより後代のイメージの変化が大きいのではないかと疑います。

牧野博士の立論を覆すものではなく、可能性の一つを探る内容ですがいかが思われるでしょうか。ご意見いただければ幸いに存じます。

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